2009年10月アーカイブ

菱餅の謎

菱餅はなぜひし形なの? あの色はなに?

お正月にご家庭で召し上がるお餅、たいていは四角か丸でしょう。
ところが、宮家ではこのお餅、ひし形なんだそうです。

vol2.jpg

 
「ひし」とは、池や川に生える植物で黒っぽいトゲのある実がなるのですが、このトゲが魔を除けると信じられて縁起物となっているそうです。
ヒイラギなども同じように魔除けになっていますね。

だいたいお雛様に飾られる菱餅は三段か五段になっていますが、白は普通のもち米、赤は紅(母子草からとった食紅)、黄色は栗、緑はヨモギを搗きこんででつくられます。

五穀の豊饒と子孫繁栄を搗きこんでいるといわれています。

お飾りの謎

お内裏様の左右にときどき置いてある黒いおヒツのようなもの。
あれは一体、何?

円筒形のものと、六角形のものがあります。

これが入っている箱には、「行器」「貝樋」、中には「保貝」と書いたものもあります。「行器」は、ホカイと読みます。「貝桶(かいおけ)」はご存知の方も多いでしょう。貝合わせ(注)を入れる入れ物です。では行器とは何でしょう。

vol3.jpg

 
実物の大きさも貝桶と同じくらいですが、この円筒形の容れ物は、実は、お弁当やお酒、ちょっとした小物を入れて持ち運ぶための道具なのです。

これに対して貝桶は、貝合わせを入れるためだけのもので、正確には八角形で印籠蓋、二段になったものと、段になっていないものとあります。そして、必ず、二個一組です。

「保貝」は完全な間違いです。
多分、行器を貝を入れるものと勘違いして文字をあてたものでしょう。

注)貝合わせ
ハマグリの内側に金泥や金箔を施し、その上に花鳥風月を描いたものです。
一つの貝の両方に同じ絵を描きます。

貝競べという遊びから始まったようですが、後には遊びというより神事に近く、貝合わせを始めるときには、八坂神社など宮司さん達の立ち会いのもと厳かに行われたようです。

貝の数には定めはなかったようで、300~500対くらいのものが多かったそうです。

男雛と女雛の左右

男雛と女雛の左右、どちらが本当なの?

 
どちらでもよろしい。というとすごくいい加減なようですが、本当にどちらでも結構です。

もともとは、男雛が向かって右側にいるのが当たり前だったのですが、大正のころから主に関東地方でこの逆に飾られるようになりました。

これは、天皇と皇后の並ばれる位置によるのですが、大正天皇のお姿が始めて新聞に載ったとき、天皇が左側であったことが始まりといわれています。

vol4.jpg

 
ただ、現在でも京都御所での御座は天皇が右側ということで、おもに関西地方では男雛が右側に飾られます。

日本では向かって右側が上座ということになっており、舞台でも右が上手(かみて)と呼ばれます。男社会の名残と言えばその通りでしょう。

ですから、京雛だから向かって右に男雛というのは、あまり意味がないですね。

笏(しゃく)と桧扇(ひおうぎ)


 男雛の持っているしゃもじのような「笏」と、女雛の「桧扇」、もとは同じものだという説があります。

笏は姿勢・威儀を正すために儀式のときに持つものですが、この笏の裏側に儀式のせりふなどを書きつけて読んだようです。

vol5.jpg

 ところが、このせりふが多いと1枚では書ききれず、2枚3枚とふえて、これを束ねたために扇子のような形になったのが桧扇の始まりというのです。

中世では紙がまだ貴重品だったため、このよ うに木簡に書いたようです。

男雛の冠

男雛の冠についてる羽根のようなもの

男雛の冠の後ろにつける羽根のようなもの、「纓(エイ)」といいます。ピンとまっすぐ立ったものが多いのですが、垂れているものもあります。

vol6.jpg 

 これ、位によって形が違うんです。帝はまっすぐ立った「立纓(リュウエイ)」、以下、文官は垂れ下がった「垂纓(スイエイ)」、武官はくるくる巻いた「巻纓(ケンエイ)」で、右大臣・左大臣がこれにあたります。
  また、六位の武官がかぶった「細纓(サイエイ)」という紐のように細い纓もありました。

  ですから、位によって定められている禁色の衣裳を着たお雛さま、例えば、黄櫨染のお雛さまは立纓でなければなりません。

お雛様の飾り方、一

お内裏さまに三人官女、五人囃子に左右大臣、三人の仕丁、
人数が多くて並べ方が覚 えられない・・・・

 毎年、悩みながら飾る方が多いと思います。
でも、本当は 決まりなどあまり気にせず、楽しく自由に飾っていただいて良いと思うんです。

vol7.jpg

 官女が3人と決まったのはいつでしょう?
徳川美術館はじめ、旧家のお雛さまの中に は、5人も10人も官女がいるものがあります。
五人囃子が10人も20人もいた り、仕丁に至っては荷物をかついだり、餅をついていたりたくさん働いているのがよ く見られます。

今のような人数に決められた(?)のは、たぶん、昭和になってから ではないでしょうか。

 ですから、こういうふうにならべなければならない、といった シキタリはないと言ってもいいのではないでしょうか。

でも、一応、決まり事があっ たほうが並べやすいので、簡単な決まりを次回のコラム「お雛さまの飾り方(二)」に書きます。

お雛様の飾り方、二

 お供の人形たちは、大きく分けて履物をはいている人と、はいていない人に分けられます。

官女、五人囃子ははいていません。 これは御殿の中にいる人達だからです。
中でも官女は内裏のお世話をする人たちなので、五人囃子より上に飾ります。

五人囃子 は、歌舞伎などを見に行くと、そっくり同じように並んでいます。おおむね、左の方 が大きな音のする楽器で、右へ行くほど小さくなります。
一番右には、扇子を持った謡(うたい)が並びます。

vol8.jpg

                                                              
右大臣・左大臣、仕丁は、くつやわらじをはいていますので下のほう、御殿の外と分かります。当然、大臣の方が上です。大臣はふつう、ひげの老人が左大臣(向かって右)とされますが、位と年齢は関係ないので、衣装で決め るのが本当でしょう。

仕丁は泣いたり笑ったり怒ったりしています。お好きな順に並べていいと思います。

 お道具類は、本当に自由でいいとわたしは思います。
お嬢さまのお膳やおもちゃ、お祝のお人形なども一緒に、にぎやかに飾ってください。


お内裏さまの左右は前に書きましたので、見てください

桜と橘(たちばな)

 お雛さまにつきものの桜と橘、桜の花は満開になっています。でも、ひな祭りのころ には、実際の桜はまだ固いつぼみですね。


vol9.jpg


 では、なぜ?

そこは昔のこと、ひな祭りは 旧暦で行われていたんです。

旧暦の3月3日は4月の初旬、昔は満開の桜を見ながら ひな祭りができたんですね。

で、なぜ、桜と橘かというと、京都御所の御殿の前に桜と橘が植えられているからなんです。

樹齢とかは知りませんが、古い御所の行事の絵図などにも描かれていますので古いものだと思います。

ぼんぼり(雪洞)

 ぼんぼりにはいろいろな種類がありますが、「菊灯」と書かれているものが多いです。

では、どこが「菊」かというと、柱の下の土台にあたるところが菊の花のような形をしているからなんです。


vol10.jpg

 
火袋の方は普通は桃の花のつぼみの形と言われていますが、細長い「ナツメ(お茶をいれる器)」形や六角形のものなどがあります。

また、木目込人形などには、燭台、油灯などと呼ばれる、紙でおおっただけのシンプルな形のものも用いられます。

本頭って?

ほんがしらと読みます。

本物の頭という意味でしょうが、平田郷陽や堀柳女らの人形作家(いずれも重要無形文化財・故人)の方々は木彫りの頭のことを指して言っています。

人形業界では、練り頭(ねりがしら)という量産化を可能にした頭のことまで、「本頭」と呼んでいます。この練り頭は、木粉に接着剤を混ぜた粘土状のものを頭の型にはめて乾燥したものに、何重も胡粉を塗り重ね、目を入れたり髪を植えたり したものです。

vol11.jpg


 現在は、これらの「本頭」はごく一部になり、型に石膏を流し込んで 作った「石膏頭」がほとんどです。この「石膏頭」すら、「本頭」という業者の方もおられますので注意が必要です。

石膏頭が悪いわけではありませんが、精巧に型が取 れるため、均一な出来上がりで量産ができるので、一つ一つの表情の違いというものがほとんどありません。
はずれがないかわり、面白味に欠けるというくらいでしょ うか。

 神技のような頭師(かしらし=頭彫りの職人さん)が、ほとんどいなくなってしまったのは寂しい気がします。

味のある「本頭」が見たいものです。

犬張子の謎

平成13年12月3日の新聞に皇后様が愛子様のお守りに「犬張子」を贈られた記事が載っていました。

この「犬張子」、どんな形なのでしょうか?

 よく、お宮参りに用いられる猫のような形の犬張子がありますが、それとはちょっと違います。

vol12.jpg

 
 お伽犬とか、犬箱、犬筥と呼ばれるもので、足はなく、胴体の上半分がふたになっていて、中に物が入れられるようになっており、和紙を貼り重ね胡粉や金箔を施した表面に、松竹梅や鶴亀などをおめでたい文様を彩色した、きれいな可愛らしいものです。

普通は二体一組になっています。中には、お札を入れたり、切った爪をいれたりしたようです。

  昔から犬は魔よけとしてよく用いられ、小さな子が夢にうなされるとき「犬の子、犬の子」というまじないの言葉などもありました。

神社の狛犬も魔よけの象徴でしょう。また、栄花物語にも「御帳のそばの、獅子、狛犬の顔つきもおそろしげ也」とあるように、平安時代には、御簾、几帳などが風で揺れるのを防ぐための置物にも使われたようで、身近な魔よけの代表選手であったようです。

 お雛様もお守りの一つですが、小さな犬箱は、そのお雛様のお守りとしてお雛様の脇にもよく飾られます。

 

あまがつの謎

 やはり平成13年12月3日の新聞に、皇后様から愛子様に「あまがつ(天児)人形」が贈られたと載っていました。

 聞きなれない名前の人形ですね。これは綿を絹布でくるんでこしらえた頭を丁の字に組んだ木柱に取り付けて着物を着せた簡素なお人形で、厄除けのお人形として用いられます。寸法もきちんと決められています。

また、ぬいぐるみのように絹布に綿を詰めてこしらえられた、ちょうど飛騨のお土産の「さるぼぼ」のような形の、真っ白なお人形も「天児」とか「ほうこ」と呼ばれることがあります。このお人形にも着ぐるみのように着物が着せられます。

vol13.jpg 

  「貞丈雑記」には、「天児とほうこと作り方が異なるという説があるがそれは間違いで同じ物である」と記されていますが、両者の違いは今でもけっこうあいまいで、多くの書物でもどちらともとれるような表現がされています。

  私は、木の胴でできている方が「天児」で、ぬいぐるみのようにできている方が「ほうこ」だと思うのですが。これは、「ほうこ」は文字通り「這う子」で、ぬいぐるみでできているほうはこれにぴったりの姿だからです。

 また、御台人形というお人形も贈られます。これは立ち姿の小さな御所人形で、お印(愛子様はゴヨウツツジ)の花の造花などで飾った嶋台の上に飾られるのでこの名前があります。腹掛けをしたり、着物を着ていることもありますが、ご本人や両親にちなんだ文様の刺繍や柄が施されるそうで、一度拝見できたらと思っています。

うんげんべりの謎

 お雛様の座っている畳の台には、たいてい縦じまのオレンジや赤の縁(ヘリ)がついています。この縁のことを繧繝縁(ウンゲンベリ)といいます。

vol14.jpg

 
古来、天皇しか用いられないものでしたが、次第に皇族や神社などでも用いられるようになりました。お雛様の台としてよく用いられるのですが、では、この「繧繝」というのはいったい何?

  ウンゲン錦というのが衣装にあって、これは赤や紫などを濃い色から薄い色へとぼかすように織った布です。「繧」とは「ぼかす」という意味の文字で、「繝」は錦の織物のことです。また、昔の書物に、「繧」はもともと「暈(ウン・ボカス)」ではないかと言うことも書いてあります。

  いずれにしても、同系色の濃い色と薄い色をぼかすように織り、文様をいれた織物ということでしょう。お雛様の繧繝縁にはこれにたいていひし形の文様が織りこんであります。 繧繝縁とは別に、高麗縁というのもお雛様に使われます。
次の欄で書きます。

こうらいべりの謎

 ときどき、お雛様の親王飾りの台などに、白地に黒でキャベツの輪切りのような文様の縁のついたものがあります。これが高麗縁です。

もとは高麗(朝鮮)から伝わったものなのでしょう。

vol15.jpg

 
繧繝縁との違いは、繧繝の場合はもともと天皇・皇族の内向きの儀式などのときに用いられるもので、高麗縁は皇族や将軍などが人と会う時に用いる外向きのものだったようです。

また、繧繝縁は金糸銀糸を混ぜた錦であるのに対し、高麗縁は白と黒だけの綾織りです。

で、このキャベツの輪切りのようなのは、雪割草の文様です。

堂上家の故実書や海人の藻くずのような書物に、「繧繝縁は帝、院が用い、大文の高麗縁は親王、大臣、小文の高麗縁は大臣以下の公卿が用いる」というようなことが記されています。
あと、紫、赤、黄色など位によって畳の縁も定められていたようで、昔はけっこう難しいことが多かったようですね。

三人官女の謎

 女の元服  三人官女の立ってる人と座ってる人、お顔が違うのを気がついていましたか?

立ってる二人は普通の眉で白い歯、座ってる人は普通眉がなく、黒い歯が付けられています。これは、男に元服があるように女にも元服があり、眉を落としお歯黒をしたんですね。

vol16.jpg 

 女の場合もだいたい数えで16才で元服したようです。元服といわず、「髪そぎ」ということが多かったようですが、日の良い日に、碁盤の上に立って、まず、いいなずけ(!)が髪の末端を「ちひろ、ももひろ」と三度唱えてカット、その後、びん(こめかみの部分)をカットしました。

「千尋、百尋」で、髪が長く伸びるようにというおまじないです。
「びん」というのは、源氏物語絵巻でも出てきますが、扇を持っていないときに、このびんの部分で顔をかくすのに使ったそうです。

 で、カットした後に本眉というあの丸い眉を額に描き、お歯黒をつけて出来上がり。
お歯黒というとすごく昔のことのように思いますが、私の亡くなった明治生まれの祖母はお歯黒をしたことがあると言っていました。

 余談ですが、昔は髪が長いので髪を洗うのはすごく大変でした。
まず、洗う日ですが、行事があるときや日の悪い日はだめなので、ひどいときは数ヶ月に一度くらいだったようで、シャンプー・リンスもないので当然水洗いオンリー。
洗ってからがたいへんで、長い髪を乾かすのに、高い台の上に寝そべって、垂らした髪がよじれたりしないようにみんなで拭いたり、櫛で梳いたり・・・・・

 でも、源氏物語の末摘花のように、この髪ひとつで女性の運命が決まることもあるので必死だったのでしょうね。


十二単の謎

十二単というのは不思議な言葉で、いったい、どこからどこまでが12枚なのかよくわかりません。普通、お雛様は1枚か2枚しか単は着ていないのに・・・・・

vol17.jpg 
 
 まず、「十二単」という言葉ですが、これは「12枚の単(ひとえ=裏のついていない衣)」という意味ではなく、12枚の合わせ(袷=裏のついた衣)と1枚の単という意味なのです。つまり、ここでもう、13枚の衣装という訳ですね。
 平安時代の初めころまでは、正式の場に出る装束は、白い小袖に緋袴(神社の巫女さんの姿を想像してね)の上に単を1枚、その上に12枚の合わせを着ていたのを十二単と呼んだそうなんです。これが後に、五つ衣・表着・唐衣の組み合わせに変遷したのですが、十二単という言葉だけが残って、今もそう呼ばれているということです。
 でも、12枚の合わせではなく、呼び名の通り12枚の単を着ていたんでは?という方もいて、確たるところはわかりません。いずれにしても、12枚の衣装を着ていたことは間違いなく、後に枚数が変わっても呼び名だけが残ったというわけです。
 紫式部は、とてもおしゃれに関心があったようで、源氏物語や、ことに紫式部日記には十二単の衣装の色や柄、かさねの色目など、何度も細かく描写しています。
衣装の色の組み合わせ(かさねの色目)には「紅の薄様」「紅梅匂」「楓紅葉」「雪の下」など、たくさんの名前がつけられ、季節や場所に応じて楽しんでいたようです。
とても格調高い感じがしますね。
 三人官女や五人ばやしは、お内裏さまに比べてずいぶん小さく作られています。尺度が違っているみたいですね。
これはなぜ?

vol18.jpg
 

 これは、お雛さまはもともと男雛女雛の二人だけだったことが原因なんです。中世以前の、紙や布でできた簡素なものに始まって、次第に立派なお内裏さまになり、江戸時代になって初めてお供の人形が作られるようになったんです。

 お内裏さまは子供が生まれたときに贈られるのに対し、お供の人形は、その子がお嫁入りするときに作られたんですね。
お嫁入りのとき持たされたお道具(箪笥や長持ち、駕籠や茶道具など)のミニチュアをつくり、それらの道具に携わる人々の姿を一緒にこしらえてお雛祭りのときに飾ったのが始まりなんです。お道具に合わせて作られたので、小さなものになったんですね。

 お道具の中にも、大きさのおかしいものがあります。 箪笥長持ちに比べて、重箱や菱餅・三方などはずいぶん大きくなっています。これは、箪笥や長持ちとは成り立ちが違うからです。たんすや長持ちは、お嫁入りの道具のミニチュアとして作られていますが、重箱や三方は、もともと、お雛さまにお料理やお神酒、菱餅などをお供えする本物のお道具なのです。

官女さんに比べてお内裏さまはでかすぎる!
なんて言わないでくださいね。

束帯の謎

 どうしてもお雛さまというと、つい、十二単のお姫さまの方ばかり気になってしまって、お殿さまの方はちっとも話題にのぼらない、と、ご指摘をうけてしまいました。そこで、登場するのが「束帯」です。束帯は奈良時代に中国から輸入された唐服をもとに、時代とともに変化してきたもので、平安時代と江戸時代とでは、随分、様式も違うのですが、私も学者ではありませんので大まかな知識しかありません。大体、江戸時代前半のころのものだと思ってお読みください。「えっ?平安時代のことじゃないの?」と言われそうですが、平安時代のちゃんとした資料がありませんので、お許しください。

  一般に、男雛は「束帯(そくたい)」といわれる姿をしています。
  みなさんがよく見かける姿で似たものは、神社の神主さんの姿ですね。
でも、お雛様の着ている衣装は、神主さんのそれとはちょっと違います。

vol19.jpg 

ときどき、その字面から帯のことと思われる方もありますが、束帯とは冠から衣裳、はき物までをふくめた装束のことで、帯のことではありません。

  簡単にいえば、束帯とは公家装束の一番正式なものなのです。
武官、文官の違いや色、柄、部品の大きさ長さ、持ち物の素材など、地位や役職によってことこまかに決まりがあり、装着するだけでも大変だったようです。

  よく、衣冠束帯とひとくくりに呼ばれますが、束帯が最も正式な格式高い装束なのに対して、衣冠とは、少しそれを省略した装束の呼び名で、衣と冠のことではありません。

  束帯は、冠をかぶり、下着や袴を重ねて着て裾(キョ)という後ろに引きずるものを着け、その上に袍(ホウ)という上着を着ます。石帯(セキタイ)という帯をつけ、手には笏(シャク)を持ち、襪(シトウズ)という靴下の上に沓(クツ)を履きます。
太刀を帯びるときは、小さなエプロンのような平緒というものをつけます。正式の装束ですので、位などによってそれぞれの部品にも色・柄・形の取り決めがあり、どれ一つ省略できません。

  衣冠は、見た感じは束帯とあまり変わりませんが、束帯には脇を縫った「縫腋(ホウエキ)の袍」(文官)と「闕腋(ケッテキ)の袍」(武官)があるのに対し、衣冠には縫腋しかなく、石帯もせず、袴も異なります。
束帯が正式の装束なのに対し、ちょっとくだけた略礼服かダークスーツといった感じでしょうか。

  この他に、くだけかたや位に応じて、直衣(ノウシ)、狩衣(カリギヌ)、直垂(ヒタタレ)など多くの装束があります。

  束帯のほんのうわっつらだけでも、こんなに字数がかかります。かえって謎がふえてきちゃいましたので、また、パーツごとに謎解きをしていきたいと思います。

  写真は、桐竹鳳凰文の黄櫨染(コウロセン)の束帯の立雛です。人形ですので、省略や誇張がありますが典型的な有職雛の一つです。

「装束図式」「貞丈雑記」「日本服飾史」ほか参照

魚袋の謎

「ぎょたい」と読みます。最近は多くのお雛さまに付けられるようになりました。正式には石帯の第一と第二の石の間にぶら下げます。
でも、これは、いったい何?黄門さまの印籠?

vol20.jpg 

 もとは、中国の唐の時代のころ、宮廷に出入りする時の通行証といわれています。奈良時代にわが国にも輸入され、冠位十二階でも定められたようですが、そのころは、位袋という、絹の袋で、位によって色や柄が決められていたようです。だんだん、本格的なものが作られるようになり、平安時代になると写真のような唐と同じものになったようです。

  で、なぜ、魚?
  これは、鯉なのです。鯉の「り・こい」が、唐の皇室 李(り)氏を象徴しているからといわれます。あるいは、登竜門の故事と関係があるかもしれません。この鯉が金色だと三位以上、銀色だと「四位または五位」で、六位以下はつけられませんでした。必要なかったからですね。

  これが付いてるから高級、といわれる方もあるようですが、ちょっと疑問もあります。

  お雛さまはたいてい冠を着け、その冠に纓(えい)というものがついています。この纓が、ぴんと立った立纓だと帝の位と前に書きました。魚袋が通行証だとすると、もともとそこに住んでいる帝や親王たちには、この魚袋は必要ないのでは?という疑問が涌いてきます。その通りなのです。装束についても、黄櫨染(コウロセン)は帝しか着られないため、これに魚袋がついているのはおかしいということになります。

  まあ、お人形ですから、より豪華な感じを出すためとご理解ください。厳格な作者による有職雛にはつけられないこともあります。

「冷泉家の至宝展」「有職故実 上下」「大言海」他 参照  最後の部分は筆者の見解です。参考にとどめてください。

石帯の謎

お雛さまを後ろから見ると、丸い石がついた黒い革ベルトがついたものがあります。これを「石帯(せきたい)」と言います。これは、いったい何?

vol21.jpg

  もとは西域(中央アジア)から中国に伝わり、日本に伝わったものと言われています。束帯を着る時に使います。裾を引きずらないように背中にまとめるとき便利ですが、そのためだけにあるのかどうか・・・ よくわかりません。

  これも、位や儀式の軽重によっていろいろな定めがあります。ベルト本体は牛革を漆で仕上げたものですが、これに、全部で11個の石がつけられ、これによって石帯とよばれています。
  三位以上は玉(ぎょく・きれいな石)、四位以下ははメノウや犀角(牛の角?)などが用いられ、大切な儀式には四角(巡方)、通常は丸い(丸鞆)ものが用いられたようです。下の帯に10個、上の帯の端(蛇尾)に1個の1個で、彫刻がしてあるものもあり、これをいくつも用意するのは大変だったでしょうね。

  写真は白い石で、丸と四角が使われていますが、これは通用帯と呼ばれ、重要な儀式にもふだんにも用いられた重宝なものだったようです。
  裾が、袍の下からのびたままになっています。この裾を、御所の手すりにかけて座っている姿が源氏物語絵巻に描かれています。外を歩く時は、これを石帯にかけて引きずらないようにしたんですね。

お雛様のしまい方 一 ~時期~

 「三月三日にしまわないとお嫁に行き遅れる」とおっしゃる方がおられます。「テレビで某占い師の方がそのように言っているのも聞いた」という方もいらっしゃいました。
  まったくの流言です。まず、三月三日というのはいつのことでしょう?今の暦の三月三日でしょうか、旧暦の三月三日?または月遅れの四月三日のことなのでしょうか。地方によって、雛祭りはこの3通りの日に行われます。
  旧家のお家では、代々のお雛様や、お婆さま、お母様、そしてお嬢様のお雛様と、お座敷いっぱいに何組もお雛様を飾られるお宅があります。飾るのに3~4日、しまうのに4~5日かかることもあります。こうしたお宅では、その日にしまうことはもともと無理なことです。
  徳川美術館様では、毎年、4月初旬まで雛祭り展を催されます。片付けるのに1週間かかるそうです。

  こうした旧家のお嬢様や、尾張徳川家のお嬢様たちが行き遅れたというのは聞いたことがありません。

  そもそも、三月三日に雛祭りをして、その晩にお雛様をかたづけるというのは、どう考えても無理な話なのです。時間的にも、物理的にもほとんど不可能なことが言い伝えとして残るはずがありません。これは、ここ2~30年の最近、まことしやかに流された流言なのです。
  たぶん、その真意は、「節句は節目を祝うものだから、いつまでも飾っておいてはいけないよ」ということなのでしょう。

  大切なのは、お雛祭りを終えたら、なるべく早めの「お天気のよい」、「たっぷり時間の余裕がある日」にしまうことです。三月三日にお客様の帰られたあと、徹夜をしてお雛様をかたづけ、しかもその日が雨降りだったりしたら最悪です。たいへんな思いをしてしまったのに、翌年出したらカビがはえていた、なんてことにもなりかねません。

  もう一つ、「そんなときはお雛様を後ろ向きにしたらいいのよ」という方がいらっしゃいます。
  やめてください。お雛様はお嬢様のお守りとして求められたはずです。飾る場所も、家族の皆様から見られる場所、お雛様がお嬢様を見守られる場所に飾っておられるはずです。見る、見守るという関係のお雛様を、わざわざ後ろ向きにしてそっぽを向かせるようなことは、これ以上縁起の悪いことはありません。どうしても気になる方は、お雛様一対だけでも先にしまわれたらよろしいのです。

お雛様のしまい方 一 ~方法~

お雛様はもともと日本の風土には合うように作られています。ですから、日本建築のお家では虫食いに注意していただければ、そんなに神経質になる必要はありません。

  お雛様によくないのは、「湿気」と、「虫食い」で、たまに「過度の気温の変化」や「ネズミ」などがあります。
「湿気」と「虫食い」を防ぐのに最も良いのは、「完全密封」です。旧家のお雛様のしまい方で、お雛様の箱を大きな和紙で二重にくるみ、紙の合わせ目を糊でたんねんに密封し、倉の二階にしまっておられるのを拝見したことがあります。江戸時代のお雛様が本当にきれいに保存されていました。
  一般のお家で、一番簡単にできるのは、大きなビニール袋に箱ごと入れて密封することです。大きなビニール袋がなければ、一体ずつビニールに入れてもいいでしょう。大きなタッパーウェアにしまっておられる方もいらっしゃいます。念のため、中に小さな防虫剤をひとつ入れておけばなお良いでしょう。

  注意することは、
①湿気の少ないお天気の良い、時間の余裕がたっぷりある日に。
②羽根はたきでお人形をほこりをよく落とす。特に、装束のヒダの中とか、丹念に。 
③お顔など白いところは素手でさわらない。お顔を柔らかい紙で包む。 
④付属の小道具を取り外し、なくさないよう袋や小箱にしまう。
⑤お人形を箱に入れるとき、特に姫の裾などしわにならないよう注意し、ビニール袋に入れたり、和紙やタッパーウェアなどを使って密封する。中に、小さな防虫剤を少量入れる。
⑥湿気の少ない、夏に暑くなりすぎない場所にしまう。押し入れなら、下より上の段に。

五月人形の謎

 旧家の五月節句のお飾りを拝見すると、大きな弓を持って立つ勇ましい姿の女性と、かたわらに赤ちゃんを抱いてひざまずく白いヒゲのお爺さんのお人形をよく見ます。



 
2_vol1.jpg

  
この女性は「神功皇后(じんぐうこうごう)」といって、大和朝廷の2~3世紀のころにクマソ、シラギ征討に活躍したといわれる、日本の元祖"ジャンヌ=ダルク"のようなひとです。

男の子の節句と思われている端午の節句に女性のお人形が飾られているのは、とても興味深いことですね。 ちなみに赤ちゃんを抱いているお爺さんは「タケノウチノスクネ」といって、当時の総理大臣の位までのぼりつめた英雄です。

赤ちゃんは、皇后の子で「応神天皇」です。
江戸時代は、庶民はヨロイ・カブトや刀を持つことができなかったので、このようなお人形や、ヒノキで作った「桧兜(ヒノキカブト)」という、木彫りのカブトなどを飾ったのでした。むしろ北斎の版画にもあるように、こいのぼりの方がお節句の飾りとしては一般的だったのかもしれません。

現在では、ヨロイ・カブトを飾るのが一般的ですが、大将や金太郎、桃太郎などのお人形をお飾りいただくのもとても楽しいお飾りになると思います。

そして小さくても是非こいのぼりを揚げてやってください。

お父さん、お母さんに揚げてもらったこいのぼりの思い出は一生の宝物となるはずです。

「端午の節句」って何?

 まずは、言葉の説明から~
端=端っこ、始め ・ 午=うま ・ 節句=節供、節目の祝い

つまり、初めての午の日のお節句という意味です。もともとは五月の初めての午の日の節句で、五月五日と決まっていた訳ではなかったようです。

さて、五月五日といってもそこは昔のこと、旧暦でのことです。ですから、今の暦で言えば六月初旬、ちょうど田植えの季節です。今年も豊作でありますようにと祈願したのが始まりでしょう。

また、冷蔵庫のない時代のこと、蒸し暑い六月は食べ物が腐ったり、食中毒も多かったのではないかと思います。
そこで昔の人は生活の知恵で、ショウブやカシワ、ヨモギなどの香草、薬草で食べ物を包んだり、混ぜ込んだりすると不思議と腐りにくいことを知っていたのですね。

チマキ、柏餅もこうして端午の節句に登場する訳です。
別名、菖蒲の節句と言われるのも、うなずけます。

もともとは公家の行事であったのが、菖蒲-勝負-尚武の語呂合わせなどもあって、武家で男児の出世を願う祝いの日として定着したのはひな祭りと比べると、ずっと後のことです。

一般の家庭、町人の家でも祝うようになったのは江戸時代も中頃になってからでした。

値段の違いはどこに?

 五万円のカブトと百万円のカブト、初めて見る方にはどこにその違いがあるのかよく分かりませんね。

どちらのカブトにも「本金箔押」とか「正絹縅」とか「木彫箔押龍」とか「合わせ鉢」などと表示してあります。
たぶん、品名・メーカー名が書いてなかったら善し悪しの分からない販売員も多いでしょう。

ヨロイ、カブトに限らず、全ての工芸品について言えるのが、値段の差はその作者の技術と手間(時間)にあるということなのです。

「本金箔押」とか「正絹縅」というのはあくまでも材料の表示で、技術の表示ではありません。材料の違いによる値段の差は、本当は微々たるものなのです。

たとえば、「本彫箔押龍」と表示されている竜頭、五万円にも百万円にもついています。でも、よく見てください。同じ「木彫箔押龍」でもまったく違います。
同様に「正絹縅」でも「正絹」にも非常に幅広い品質があります。中には、「正絹が混じっている」だけの「正絹縅」もあります。

これら一つ一つの違いをお客様が見分け、判断するのは、よほど見慣れている方でないと無理でしょう。結局、大事なのはどう選ぶかということよりも、どこのお店で買うかということのような気がします。材料の説明に終始するお店は、その表示されている材料の説明しかできないことが多いのです。

金太郎の謎

 熊と相撲をとる金太郎、誰でも知ってますが、実在のモデルが存在しているのを知 らない方が意外と多いようです。

2_vol4.jpg
 

 まず、金太郎の本籍ですが、現在の神奈川県(相模)足柄山の生まれです。
母親はヤマンバで、父親は不明です。時代は平安時代後期です。

少年時代に碓氷貞光(渡辺綱 とも)に拾われ、主人、源頼光に仕えるようになり公時の名前をもらって、頼光の四天王となりました。

「今昔物語」に童話?としての話が出てきますが、ちゃんとしたお話になったのは近松門左衛門の「嫗山姥(こもやまうば)」のようです。


兜の穴

 兜のてっぺんに穴があいています。
この穴に「はめ込むものがない」と時々おしかりを受ける事がありますが、この穴にはめるものはないのです。

2_vol5.jpg

 
この穴は「天辺孔(てっぺんこう)」と言って、ほとんどの兜に空いています。
鎌倉時代初めころまでは、頭に「萎烏帽子(なええぼし)」といって、柔らかい黒く薄い布でできた帽子をかぶり、ハチマキを巻いて兜をかぶったのです。
兜の内側には布が貼ってなくて、この帽子の先をこの穴から出して兜をかぶっていた様子が「平治物語絵巻」などにも描かれています。

昔の人はシャンプーで髪を洗うわけでもありませんので、特に夏などはすごくかゆくなるらしく、頭のてっぺんをつるつるにそったのもそのためなのですが、兜も頭がむれたり、かゆくなるのを防ぐのに穴を空けてあるのです。

 なんかおかしいですね。

家紋の謎(1)

 初節句のお雛様に家紋をつけることはありませんが、端午の節句のお飾りには家紋をよくつけられます。これは、その家を継ぐ者としての印でもあるからです。

__では、家紋とは一体なんでしょう?
もとは、公家の間で、御所車や持ち物など一目でわかるように付けたのが始まりのようですが、戦国時代には旗指物にそれぞれの印をつけ、戦功にもれないよう目立つ目印として用いられました。
江戸時代には、武家は各家ごとに家紋を決め、幕府に登録が義務づけられました。
藤原氏の「藤」、源氏の「ささりんどう」などが有名ですが、紋を見ればある程度その家の系統などが分かるようにさまざまな紋章が考え出されました。

__明治になって一般庶民に苗字がつけられ、ついでに家紋も各家にもつけられるようになりました。
由緒正しい家柄のご紋は大切にされねばなりませんが、新しく家紋を考案される方も結構増えています。

浪越徳次郎さんの家紋は「手のひら」ですし、江戸家猫八さんは「猫の顔」です。海外では、KAMONが斬新なデザインとして注目されてもいます。

「本金蒔絵」でおヒツに家紋をいれるのが本式です。

家紋の謎(2)

 よく「男紋だから丸を入れる」、「女紋だから丸がない」と言われますが、そう決め付けるのは間違いです。男紋という言い方が少し変なのですが、家紋という意味で言えば丸のない家紋もたくさんあります。

2_vol7.jpg

 また、関西を中心に「女紋」という言い方をよく使いますが、これは、奥様のご実家の女紋を指します。ということは、実家のお母様の女紋とは、そのまた実家の女紋であり、女紋とは、母から娘へ連綿と受け継がれるものなのです。

でも、これは、一部の由緒正しいお家のことで、一般には家紋の「丸なし」とか、家紋のほかにその家で「女紋」を決めておられるところも多いようです。

__ 「家紋を教えてください」と申し上げると、奥様の紋付を見てこられる方がよくいらっしゃいますが、家紋と違うことが多いのでご注意ください。

正平6年6月1日の謎

  兜の左右に反り返ったところや、鎧の胴体などに貼られている革。
ここに、よく見ると「正平六年六月一日」と書いてあることがあります。正平六年とは1351年、足利尊氏の室町時代の初めです。

甲冑は当時九州でもよく作られていたのですが、肥後の国(熊本県)の甲冑師の使っていた革に模様を捺す版木が、「不動明王」や「八幡」の絵や文字であったため、恐れ多いとして使用禁止を言い渡されてしまいました。

たまたま、当地を訪れた鎮西将軍懐良親王が、この腕を惜しんで、唐草や獅子の文を許し、その日を彫った版木を用いて描いた革を「正平御免革」として、盛んに甲冑に使われるようになったわけです。

「正平革」ともいいます。ちなみに、「皮」は毛のついた毛皮の事、「革」はなめし皮のことです。

「甲」「冑」の謎

鎧と兜を総称して「甲冑(かっちゅう)」といいますが、「甲」と「冑」、どちらが兜でどちらが鎧のことでしょう。

たしか、マジンガ-Zの主人公の少年は兜甲児(かぶとこうじ)クンだったと思うのですが、実は、甲というのは鎧のことで、冑が兜のことなのです。

2_vol9.jpg

 
江戸時代には、もうこの二つは混同されていて、伊勢貞丈という人の嘆く文章が残っています。

また、「源平盛衰記」の中にも取り違えている記述があるので、後の人が間違えても無理はないのかも・・・

弓手・馬手のこと

 鎌倉・室町時代には、武士は馬に乗るときはどんなときでも必ず弓を持って乗ったようです。
弓杖といって、弓を杖にして馬に乗る方法とか、馬に乗っているときの弓の持ち方とか、いろいろな書物に記述が残っています。

__で、「弓手(ゆんで)」「馬手(めて)」という、左右を表す言葉があります。
弓手というのは左手、馬手というのは右手のことです。

一人前の武士は、左手に弓を持ち、右手一本で馬を自由にあやつり、ここぞというときには両手を離して矢を射ることができなければなりませんでした。

現代なら、右手でハンドルをあやつりながら、左手で携帯電話というところでしょうか。

とても危険ですね。

クワガタムシの謎

 子供のころ、宝物だったクワガタムシ。だれでもそんな経験があると思います。

では、この「クワガタ」ってなんでしょう? この欄に取り上げられることでもおわかりのように、兜に  ついているツノのような「鍬形」から来ているんです。形が似ていますね。

  2_vol11.jpg

 では、「鍬形」とはいったい何でしょう?
農機具のクワとはぜんぜん形が違いますね。それに、畑をたがやすクワを武具につける意味もわかりません。

実は、これ、「慈姑(クワイ)形」から転じたものなのです。
クワイは食用にも栽培 される植物ですが、別名「勝軍草」とも呼ばれる縁起のよい草とされ、この葉をかたどって兜に付けたのですね。

弁慶の七つ道具

「弁慶の七つ道具」とよくいいますが「熊手」「大槌」「大のこぎり」「まさか り」
「つく棒」「さすまた」「もじり」といわれています。

よく分からない道具もありますが、このほかに、太刀、小刀、なぎなたなども持っている姿が絵や歌舞伎で見ることができます。



 
ところが、「義経記」には弁慶の七つ道具という言葉は出てきません。

「むさし坊はわざと弓矢を持たざりけり。4尺2寸の太刀はいて、岩おどしという刀をさし、猪の目を彫ったまさかり、ないがま(薙鎌)、熊手をがらりひしりとフネに入れ・・・」
(少し意訳しました。フネとは木の箱のことです。)
とあり、これらの道具を語呂よく「弁慶の七つ道具」と呼び慣わしたようで、時代時代で持ち物も変わっていったようです。

最近は弁慶の人形を作る職人も少なくなりましたが、最後まで主君を守った(立ち往生の言葉は今も使われます)剛の者として、男の子のお守りの人形に昔からよく使われました。

「具足(ぐそく)」って何?

  「具足って鎧のことです。」
というのは、半分合ってて、半分間違いです。中には 鎧の前に置いてある毛の生えたクツとスネアテのことだと説明されるお店もあるよう ですが、これはほとんどハズレです。

辞書で「具足」を引くと
①充分備わっていること 
②所有すること、連れて行く こと
③道具・調度、武具・甲冑

というふうに載っています。

 「茶の具足」という表現がありますが、これは、お茶の道具一揃いという意味で、 要するに具足とはお道具一揃いという意味なのです。  

お節句にお飾りいただく鎧には普通、籠手(こて)や大袖など取り付けられていますが、実際の鎧にはこれらはばらばらになっていて、着用するたびに結びつけたものでした。ですから、「具足」とは武家にとっては甲冑一揃いのこと、兜から鎧、クツ までたくさんの部品をひとまとめに呼んだものだったのです。

 半分合ってるというのはそういう訳で、武家にとっては具足は甲冑そのもの、茶道 の世界では茶道具一揃いを指したものなのです。
 クツとスネアテをこう呼ぶのはほとんどハズレというのは、籠手や面頬などを含め て「小具足」と呼んだこともあって、少し合ってるからです。

※「新選古語辞典」「義経記」「源平盛衰記」「貞丈雑記」参照

キンピラゴボウの謎

 お惣菜の定番にキンピラゴボウがありますね。この「キンピラ」とはいったいなんでしょう。

意外や、これが五月人形と関係があるんです。
キンピラとは、金平と書きます。これは人名で、実は金太郎さんの息子なのです!

2_vol14.jpg

 と言っても、架空の人物なのですが、江戸時代に桜井和泉太夫という土佐浄瑠璃の語り手が創作したようです。その様子は、2尺の鉄棒でバンバン台を叩きながら拍子をとって熱演したようで、和泉太夫さん自身もずいぶん力持ちだったようです。

辞書にも金平とは「極めて美麗にして強き物事の形容」(大言海)とあり、金平ゴボウは、とても滋養があり精力がつくことや、辛くて固いことからその名がつけられたようです。

 

緑の手袋

 五月人形の大将の手は、たいてい緑色をしています。これは何?

これは「ゆがけ」という手袋なのです。
鹿革でできた手袋なのですが、弓を射るとき右手にはめるもので、現在も弓道で用いられます。五本指だったり、四本、三本のこともあります。

2_vol15.jpg

 
人形では両手にはめていますが、これは主に馬に乗るときにしたようで、「一具ゆがけ」とか「諸ゆがけ」といわれました。手綱を持つために、馬に乗るときは左手にもはめたのですね。
ゆがけとは「弓懸」と書きますが、鎌倉時代までは単に「手袋」と言っていたようです。また、「はめる」ではなく、「ゆがけをさす」と言っていました。

ゴルフのときに左手に手袋をしますが、似たようなものでしょうか。現在のゆがけはもう少しごつい感じのものです。

写真は名人・三代目昭玉作「東海の覇者」(正頭)
「東鑑」「貞丈雑記」「新選古語辞典」

ぶりぶりぎっちょの謎

 五月人形にときどき「ぶりぶり」というものがでてきます。

  江戸時代の中ごろに書かれた「和漢三才図会」という本にも、写真と同じものが図解でのっていますが、「いにしえにはなきものなり・・」とあり、いったいいつごろのもの?と思ってしまいます。

2_vol16.jpg 

 写真のぶりぶりの、車輪と棒を抜いたものが本体で、元は、これにひもを通して畑をならした道具であるとか、ひもにつるして矢の的にしたとか、ホッケーのように棒をさして玉を打つものだったとかいろいろな用途があったようです。

それぞれが本当にあったようで、なぜ、このラグビーボールのようなものがこのようにいろいろな道具に使われたのかわかりません。しかも、それがなぜ写真のように車輪をくっつけて子供のおもちゃになったのか、また、後にはお正月の飾りとして使われるようになったのか、謎は深まるばかりです。

  棒をさして玉を打つのは「ぶりぶりぎっちょ」といって、「碌毒毬杖」、「振り振り毬杖」とも書き、「ひだりぎっちょ」の語源とも言われています。

  「ぶりぶり」は本来、お正月の飾りだったのですが、五月節句にもときどき用いられます。魔を払うとして縁起のよいものだそうですが、姿もかわいらしく、品のいい飾り物ですね。

※「和漢三才図会」「古事類苑」「大言海」「貞丈雑記」参照

鯉のぼりの謎

 五月五日が近づくとあちらこちらに鯉のぼりがあげられます。威勢よく泳ぐ姿はすがすがしく、とても気持ちのいいものです。
  で、この鯉のぼり、いつごろからあるのかというと、意外とそんなに古いものではないようです。

  江戸時代以前から、大幟とか武者幟、鍾馗旗という幟や旗を端午の節句に飾ったのですが、これらのてっぺんの端に麾(マネキ)という小さな旗をぶらさげました。江戸時代の中ごろ、この麾に小旗のかわりに小さな紙でできた鯉をぶらさげるのがはやり、次第に大きな鯉になっていったようなのです。浮世絵師の勝川春好に、この小さな鯉のついた幟の絵があります。また、広重の絵に、鯉のぼりの絵がありますが、どちらも黒い真鯉一匹だけです。どちらも幕末のころの浮世絵師です。



2_vol17.jpg 

 明治も中ごろになり、武者幟をたてることが少なくなり、代わりに鯉のぼりを立てるようになっていきました。幟の先につけていた鯉は5~60cmだったのがだんだん大きくなり、それにつれて紙製から布製になっていきました。真鯉だけでなく、吹流しや緋鯉もつけられ現在のような鯉のぼりになったのは明治末期から大正時代に入ってからのようです。昭和20年代になってから、さらに青い子鯉もつけられるようになりました。

  ちなみに「鯉のぼり」という言葉はもっと新しいようです。昭和17年度版の「大言海」には「鯉のぼり」という言葉はなくて、「鯉の吹流し」という言葉で載っています。たしかに、かたちからすれば「幟」というより「吹流し」ですね。

  最後になぜ「鯉」なのかといえば、鯉は中国の竜門の言い伝えから出世魚の王さまだからです。黄河の上流の竜門の滝を登った鯉は竜になって天に上るという、あれです。江戸時代の端午の節句の幟にこの「鯉の滝登り」の絵がさかんに描かれたことも、鯉のぼりの誕生に一役買っているようです。

※俳諧歳時記 滝沢馬琴 「幟の吹流しにすと云ふ、小さなる紙製の鯉は今も売り歩くなり・・・」
※狂歌 「江戸っ子は 五月の鯉の吹流し 口は大きし腸(ハラ)はなし」

五月人形のしまい方 一、~時期~

  お雛様ほどではありませんが、「五月五日がすんだらすぐしまわないといけないんですよね?」と言う方がいらっしゃいます。

  節句のお飾りですから、いつまでも飾りっぱなしというのはだらしない感じを受けますので、なるべく早めの 「お天気の良い(湿度の低い)」、 「時間の余裕のたっぷりある」日にお片付け下さい。

  菖蒲の節句といわれることからもわかるように、本来、旧暦で行われてきた行事ですので、6月初旬の旧暦五月五日まで一ヶ月ほどの猶予期間があると考えられれば、少し気が楽です。

五月人形のしまい方 一、~方法~

①全体に羽根はたきなどで、よくほこりを落としてください。

②鎧や兜飾りの場合、金属部分が多いので、なるべく素手でさわらないよう、鍬形などに指のあとなどがあるときは柔らかい布などで拭き取ってしまいましょう。屏風や台など、塗装面は柔らかい布でから拭きしていただいても結構です。

③お人形の場合は、お顔や手など、素手でさわらないよう。お顔は柔らかい紙などで包んでください。

④鎧・兜の場合、櫃(ひつ)にしまいますが、説明書に 「防虫剤は入れないで」 と書いてあれば、入れる必要はありません。入れる場合でも、小さな防虫剤を一つ入れていただけば充分です。人形の場合も同様です。

⑤羽根や絹を使ってある弓太刀、提灯には、防虫剤を一つずつ入れてください。

⑥なるべく湿気の少ないところに保管してください。

総裏 裾裏 一枚物

 鎧や兜の高級品にときどき 「総裏(そううら)」 とか 「裾裏(すそうら)」 というものがあります。普通のものはこれに対して 「一枚物(いちまいもの)」 と呼ばれます。特に京都の職人の甲冑にこうした呼び方がつけられていることが多いです。

  兜の場合、ヘルメットにあたる 「鉢」 があり、この後ろに細かな縅絲(おどしいと)が編まれて 「錣(しころ)」 という金色や黒色の、横に細長い板が3~4段、下がっています。もとは、細かな木や竹、革などでできたちょうどカマボコ板のような冊(さく)、これを小札(こざね)といいますが、これを縅絲(おどしいと)で何十枚も横につなげて板にしたものです。

2_vol20.jpg

 
飾り兜では、続小札といって鉄などの金属を細かな波状に凹凸をつけた錣をよく使うのですが、一枚物ではこの錣は裏も表も凹凸があります。対して、総裏の兜では表から見てもわかりませんがこの錣が分厚くなって裏面が平らになっています。3~4段ある錣の全部が平らになっているものを 「総裏」、一番下の一段だけが平らになっているものを「裾裏」と呼んでいます。

よく 「総裏だから高級」 と言われますが、実際、一枚物と比べると2~3倍の値段がついています。お店で聞いても「錣が厚くなっているから」としか教えてくれませんが、「厚くなっている」 だけにしては値段がずいぶんと高すぎるような気がします。

実は、錣が分厚くなって裏が平らになっているから高いのではないのです。同じ職人が作る兜でも、上中下のランクがあります。この上ランクのものを「総裏」として、いわば簡単に見分けが付くようにするためのものなのです。錣の裏が厚いのは、裏に分厚い和紙などを圧着し漆や膠で固め金箔などを
施して平らにしたもので、これだけで何万も何十万円も値段が変わるわけではありません。彫金が複雑に、時には手彫り仕上げになったり、鉢の星に細かな座金がつけられたり、さまざまな部分で手間のかけ方が大きく違っているのです。デパートなど、一般のお店の販売員ではこうした違いがわかりにくいため、錣の形状でランクの上下がわかるようにしたのですね。

鎧ではこの部分を錣とは呼ばず、小札とだけ呼ぶようです。実際の兜では木や革、鉄板などが使われ、革と鉄を貼り合わせたものなどもあります。平安、鎌倉時代の壮麗な甲冑は、世界で最も美しい武具と呼ばれています。

※画像の黒い部分が総裏の錣です。

夏の間、人形屋は遊んでいる?

 端午の節句が終わった後、人形屋さんは何をしているの?とお客様や友人から時々尋ねられます。

遊んでいます!!といいたい所ですが、実はこの時期が結構忙しいのです。

 何をしているのかといいますと、お正月飾りの製造、お雛様の注文、発注、日本人形販売、人形の修理工芸品の注文製作などなどなど・・・ たくさんの仕事があるんです。

あれ?とお思いの方も多いはず。
そうです。この時期にお正月飾りやお雛様の準備を始めるのです。
一口に、人形屋と言っても色々あるのをご存知でしょうか。
名古屋を中心とした尾張地区の場合、人形専門の小売店というのは意外と少ないのです。

おもちゃやベビー用品との兼業店、問屋が小売りする店、人形の一部を製造しながら小売りもする店の三つにたいていは含まれます。

 当店も、お正月飾りや、一部の人形を製造しながら、卸売もする小売店です。当店では、4月頃から来年度のお正月飾りの製造や、お雛様の注文が始まります。

京都をはじめ、全国の人形職人や道具を作る職人の所を一軒ずつ回って相談しながら色・柄合わせなどをします。そして、5月や6月の全国各地で来年度用の見本市が行われるこの時期に合わせ見本作りや発注に忙殺されます。 この時期は、全国各地を飛び回っています。

そして店頭では、普段の日本人形や七夕の切り子、お盆ちょうちん、扇子などを陳列、販売、色々な工芸品の注文製作もこの時期のお仕事です。

もう一つ、この時期に多い仕事が、節句などで活躍したお人形やよろいの修理です。
長く使って頂けるように、何年前の物でも修理を受け付けております。

このように、夏のお人形屋のお仕事、どうでしたか。
ファッションショーのようにお人形屋も季節を先取りしているのです・・・。

和泉のお蔵って?

 このホームページのタイトル「和泉のお蔵」となっています。
これは、昭和40年頃、名古屋市が町名変更を行うまで当店の地名が「和泉町」と呼ばれていたことに由来しています。
今でも、年配のお客様には「和泉町」とお呼びになる方もいらっしゃいます。
「長者町」の名は今も生きていますが、この辺りには「茶屋町」「伝馬町」「魚ノ棚(うおんたな)」
「皆戸町」「伊勢町」など、風情のある町名がいっぱいありました。

 丸善と丸栄の間の「プリンセス大通」の名は、「呉服町通」の方がぜったいいいと思うんですが・・・
遠くから来た友達に、あの道の名を書いた大きなアーチを見られるのがちょっと恥ずかしいと思うのは私だけかしら。

話がそれましたが、昔の人は名前そのものを呼ぶより、町名で呼んだ方が品がいいように感じていたようです。その感覚は今でも親類や目上の方などを呼ぶときに残っているように思います。

で、当店は、町名変更と道路拡張が行われたときまで、蔵のある人形屋として親しまれてきたわけです。今では蔵こそありませんが、店内は古びた感じで(ホントに古いのですが)、落ち着いて見られると言って頂けるお客様もいてくださいます。

人形店

人形店は昔は「際物屋(きわものや)」とよくいわれました。
 これは、日用品と 違っ て、際(きわ)のもの、つまり、祭事やお節句など特別な行事のお道具を扱うお店 と いう意味です。人形屋という商売がなかったわけではないのですが、人形だけを専 門に扱うことはまれだったようです。
 当店も江戸時代から明治初期までは、茶道具や日常道具を扱う道具屋だったようで、 時期になるとお雛様などを扱っていたようです。今のようにたくさんの人形店がで きたのは、終戦後の昭和20年代以後のことです。

ですから、古い人形店ですと、今でも人形以外に祭事や節句のお道具をあつかって いるところがあります。雛人形や五月人形には、人形はもちろん、指物・漆・蒔絵・飾り金物・旗・のぼり ・など伝統的な工芸のほとんどが含まれていますので、一般には手に入らないようなものもお作りできることがあります。

  雛道具などは、江戸時代には工芸の中でも特に優れた職人しか作ることができませんでしたので、今でもその伝統が雛道具の職人に は受け継がれています。

人形供養の謎

 テレビや映画の「陰陽師」では紙を人の形に切りぬいたものがよくでてきます。 これは呪術で用いられる人形(ひとがた)で、人形のもっとも古い形かもしれませんが、私たちのいう人形とは少し意味合いが違います。 これらのひとがたは、川に流されたり、火で燃やされたりします。

  源氏物語には、可愛い紫の上がひいな遊びをするシーンが何度も出てきます。 ひいなの家も出てきて、つまり、リカちゃん人形とリカちゃんハウスなんですね。 ひいなといっても、ひな人形ではありません。 これがどんな人形かはでてきませんが、恐らく、木彫りの御所人形か小さなぬいぐるみのようなものではないかと想像します。
人や動物の小さな人形を、昔は総じて「ひいな」といったのです。

  日本人は針とか櫛とか、身の回りのものを処分するとき、なにかそれに神仏の宿りを感じ、ゴミ箱に捨てるのをためらってしまいます。 ことに人形のように人間のかたちをしているものならばなおさらです。 陰陽師のひとがたではありませんが、自分の役に立ったり、災厄から守ってくれた形代(かたしろ)として、丁重に供養してあげたいと思うのは自然な感情なのでしょう。 そのうち、パソコン供養なんてのもできるかもしれませんね。

  名古屋では毎年10月の第1木曜日の朝、中区の大須観音様で人形供養祭が行われます。

  お役を終えたお人形、供養をされたいお人形がございましたらご持参ください。 プラスチック製・ビニール製など素材は問われませんが、ケースに入ったガラスは外してください。 一口3 ,000円ほどの供養料が必要です。

有名作家のお人形?

 お雛さまや五月人形で、お客さまに「この作家は有名な方ですか?」と尋ねられ、なんとお応えしていいのか、迷ってしまうことがあります。

  お客さまのいわれる「有名」とは、たぶん、「一流」「腕のよい」という意味と、「名前が知られている」の二つの意味でおっしゃっておられるのでしょうが、これは一致しない場合も多いのです。
  一人、あるいは数人で凝ったものを作っている職人さんの作品は、当然のことながら作られる数が少なく、ごく一部のお店でしか取り扱われないので、一般のお店では名前すら知られていないことがあります。

  一方、高級品として、全国のデパートや多くのお店で扱われている作品があります。何千体作られるのかしらと思ってしまうことがあります。こうした職人・作家さんはたしかに「有名」です。もちろん、こうした作品が悪いわけではありません。むしろ、良いからこそ多くのお店で扱われ、多くの方に受け入れられているのでしょう。

  ただ、問題は、ひとつずつ手をかけて作られた職人さんのものが、「有名でない」ということで受け入れられないことがあることです。私たち扱う側がもっと勉強し、目を肥やし、良いものを作品自身の価値でお勧めできるようになることが大切なのだと思います。

  「有名」でなくとも、良い作品はけっこうありますので、名前だけでなく作品そのものをじっくり味わってください。

3_vol5.jpg
※有名でない作家の作品

破魔弓?破魔矢?の謎

 お正月が近づくと人形屋では「破魔弓」「羽子板」が売り出されます。「破魔矢」と言うこともあり、お正月に神社でいただく、矢に絵馬がついたものもこう呼びます。
  「破魔弓」「破魔矢」、どう違うのでしょう?また、「破魔」ってなんでしょう?

3_vol6.jpg 

 「はま弓」の語が書物に現れるのは、江戸時代始めの「世諺問答」がいちばん古いようなのですが、神代にウガヤフキアワセズノミコトが、子供のころに射始めたという言い伝えもあるそうです。
  江戸時代に、すでにこの「はま」というものが何なのかよくわからなかったようで、いろいろ説明をされています。
  お正月に、直径1尺ほどのわらを円形に編んだ「なべ敷き」のような的=「はま」を転がし、左右から子供たちがこれに矢を射掛けて遊んだのを「はま弓」と言い、この矢を「はま矢」と呼んだそうです。

  「破魔」と書くようになったのは、この弓矢をお正月の飾りとして飾るようになってからのことで、それまでは「濱」と書いていたようです。
  この「はま」にはいろいろな説があって、わらを丸めたものだから「葉を丸めた葉丸(はま)」だとか、古い朝鮮語の丸いものをあらわす「アマ」が語源だとか諸説ふんぷんです。そういえば、玉とか山とか鎌とか丸っぽいものに、似た音のものが多いのでうなづける点もあります。

  いずれにしても、お正月にする転がした的を射る遊びの道具をお飾りにしたものが始まりで、「破魔弓」でも「破魔矢」でもどちらでも同じ意味なのです。神社の破魔矢の源流も同じです。

  写真は江戸時代からある形を残した、現代の破魔弓です。一般にはガラスケースに入ったものが多いのですが、壁飾りや柱飾りにしてもいいものです。

立札の謎

 お雛さまや五月人形だけでなく、日本人形など、人形屋の店頭に並んでいる商品のほとんどに木の「立札」がつけられています。「作札」とか「まねき」ともいわれますが、作者名や品名、素材、中には店名の書かれたものまであります。
 
  お雛さまでも、昭和初期のころのものにはつけられていませんでしたので、戦後つけられるようになったものだと思います。

3_vol7.jpg 

 本来、これはお店で販売するときに「○○の作った作品」ということがわかるようにつけられたものだったのですが、今では、誰が作ったかと言うよりも、立札自身が商品の一部のようになって、中には人形より立派なのではないかというものまであります。
  立札は本来、作品の簡単な説明のためにつけられたものなので、ご家庭で飾っていただくときにはつけないのが本当です。品のよいお雛さまに大きな立札がついていると仰々しい感じを私は受けてしまいます。概して廉価なものほど金箔が施してあったり、立派なものがつけられているのは、上質な作品をこしらえる職人さんほど立札が目立たないよう考えておられるからでしょう。

  中には、実在しない作者名や販売店名が大書・印刷されている立札もあり、何のためのものかよくわかりません。逆に名匠と言われる方の中には、この立札をつけられない方もあります。また、美術人形の作家の方たちは立札などはあまりつけられませんね。
  京都の高級品を扱っておられる人形屋さんの中には、店頭でも立札をつけられないところがあり、「我が意を得た」ように思いました。

  上手下手はさておき、作者が自分で書いたこぢんまりした立札はなかなか良いものです。写真は30年ほど前、初代・米洲が自身で書いた立札です。味のある字で、こういう立札ですと人形と一緒に並べても違和感がありません。

羽子板の謎

 日本人であればだれでも知っている「羽子板」。でも、この羽子板という言葉はまったく謎だらけなのです。

現在、羽子板と言えば細長い板に日本舞踊などの女性の姿を押絵で描いたもので、これは、江戸時代に歌舞伎がとても評判をとったときに人気女形の姿をかたどったのが始まりと言われています。

3_vol8.jpg

 
また、徳川美術館さまには両面を金泥の上に蒔絵や盛り上げなどで城内の様子や宮中などを描いた、いわゆる「左義長羽子板(さぎちょうはごいた)」というものもあります。左義長とは、お正月の松の開けるときに飾り物などを炊きあげる儀式のことで、この羽子板のことをなぜ「左義長羽子板」と呼ぶのかは、また別の謎として置いておきます。

また羽子板のことを当時京都では「こぎの子」とか、「こぎ板」ともいったようです。
織田信長の少し前の頃の「世諺問答(ぜげんもんどう)」に「~これは幼い子の蚊に食われないまじないで、秋の始めころトンボという虫が出てきて蚊をとるという。こぎの子というのは、木蓮子をとんぼうがしらにして羽根をつけたもので、これを突き上げれば落ちるときとんぼう返りのようだ。これで蚊をこわがらせようとしてつき始めたものなのだ・・・(私訳)」と書いてあります。

今、人形屋では羽子板を「魔を突く」といって縁起がいいものと言って売っていますが、昔は蚊に食われて病気になる子も多かったでしょうから、まあ、いいとしましょう。

でも、「室町殿年中行事」の中には、お正月の部に「御こぎのこ台に座るなり」となっているので、7~8月のころに蚊に食われないためのものをなぜお正月に飾るのか、どうも釈然としません。私にはどうもこの「蚊に食われないため~」というのは、後から付けた理屈のようにしか思えません。
また、同じ「室町殿年中恒例記」の12月のところには、出入りの大工さんが、ちりとりやほうきと一緒にこぎ板12枚を一年分として納めたと書いてあります。 え~?羽子板一年分?まったく意味がわかりません。
ということで、羽子板を研究しておられる古典学者の方もおられるようです。つまり、なんにも謎解きになっていないわけですみません。羽子板が不思議な言葉であることがわかっていただければ楽しみが増えるというものです。

 現在、人形屋で普通に売られている羽子板は、藤娘とか浅妻などと書かれていても持ち物や髪型など無茶苦茶なものが多く、扱っていながらちょっと申し訳ない気持ちがしています。
この写真の羽子板は、深水の絵を基に作られていますが、表情や髪型、着物などまったく良くできていて、私も大好きな羽子板の一つです。

髪がのびる!

お人形の髪がのびる!

 お雛様と一緒によく飾られる市松人形(注)
このおかっぱの振り袖姿の人形、こわいという方がときどきいらっしゃいます。中学の教科書にあった「麗子像」を思い出してちょっと不気味という気持ち、わかります。
そして、髪の毛が伸びるというウワサ。
これ、本当なんです。 でも、これにはちゃんとした訳があります。


vol1.jpg

 
江戸時代に生まれたこの「市松人形」の髪の毛は昔は本当の髪の毛でつくられていたため、つくられてしばらくの間は、わずかですが伸びることがあったのです。

実際、抜いた髪はそのまま置いておくと数週間にわずかですが伸びるようです。
ですから、戦後、髪の毛に絹糸や合繊を用いるようになるまで、人形師は、市松人形をつくってからすぐに似は出荷せずにしばらく手元においておき、少し伸びて不揃いになったおかっぱをもう一度切り揃えてから出荷したそうです。

現在でも最高クラスの市松人形は本物の髪の毛を用いることがありますので、髪の伸びるお人形をお持ちの方はすばらしいお人形と思っていただいて間違いないでしょう。

もし、絹糸や合繊を使っているのに髪が伸びることがありましたら、非常に珍しい現象ですので当店で是非買い取らさせていただきたいと思います。

注)市松人形
江戸時代の佐野川市松という、娘役がとてもかわいらしい歌舞伎役者の姿に似せて作られたお人形です。今なら玉三郎人形といったところでしょうか。市松模様という名もこの役者からとったものです。

このアーカイブについて

このページには、2009年10月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

次のアーカイブは2016年9月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

大西人形本店Webリンク

Powered by Movable Type 4.261