
当店製 ちりめんお鏡飾り
五節句とお正月 ~その六~
お餅とお団子
お正月にはお鏡餅を供え、お雑煮をいただきます。お団子にくらべ、何となくお餅にはめでたさという隠し味が入っているような気がします。お餅とお団子はどう違うのか?
いまでは、お餅はもち米を搗く、お団子は米粉を練ってつくるという違いがありますが、大きな餅つき用の臼や、米粉をひく碾臼がができるまではお餅も団子も大きな違いはなかったようです。
お餅は鏡餅に代表されるように円く二段に重ねたり、大きく平らにのばして切り餅にして節日や祭りの日に供されるのに対し、お団子は小さくまるめられ、きな粉やあんこをまぶしたり、串にさしてみたらし団子にして普段でも食べられます。こうしたことから、その形状とともに、節句など特別な日のお餅と日常的なお団子という用途によるわけ方ができそうです。
柳田国男は、「餅やこわ飯をつくることはなかなか時間と労力のかかるものであった~中略~農家では種々なる食料を取り合わせて、ふだんの簡単な食事にあてていたのである。それ故に(餅を作る)『節日時折』は興奮であり、また大きな期待であった。」と言う風にお餅のことを考えています。(カッコ『』は筆者)
前にもお鏡餅のところで載せましたが、民俗学者の吉野裕子はお鏡餅とヘビのトグロの姿の共通性を論じています。鏡(かがみ)と言う言葉もヘビからきているのではないか。ヤマカガシという名の蛇がいるように、カガというのはヘビの古名で鏡という名称自体も、ヘビのマナコから来ているのではないかというのです。ヘビはあまり気持ちの良い生き物ではありませんが、古代人は脱皮によって生まれ変わる生命力の強い生き物として崇めていたようで、お鏡餅はその象徴というわけです。
お鏡餅がヘビのかたちと考えると私などはちょっと食欲が減退しますので、あまり考えないようにしていますが、お餅に特別な意味があるという点では柳田国男と同じです。
柳田国男はまた節供の日のことを、「(節供の日には)大体に毎日の日常の業務から遠ざかり、何もしないで遊んでいればよかったので、結果においては休息と同じ場合が多く、この義務は守るに難くなかった。しかし、世の中が進み生活の事情が変わって、節日でも働きたい、働かずにはいられぬという人が多くなると、問題はまた別なものになってくるのである。遊んでただ餅を食っただけでは節日ではなく、もちろんイワイということもできなかった。それと同じように、節供を常の日の如く働きつつ、餅だけは食おうとする者も、以前は許さなかったが、今日はもうどうすることもできない。」(下線筆者)と言っています。かつては、節供は働いてはならぬ日。その日に働くものは「なまけ者の節供働き」と馬鹿にされました。
節供とは「一月一日」「三月三日」「五月五日」「七月七日」「九月九日」の五つです。本来はただの休日と違い、働いてはならぬ日、身を慎み、キリスト教の安息日のように静かに祈る日であったようです。イワイという言葉の意味も「酒飲んで、ご馳走食べてパーっとやる」というのとはちょっと違っていました。
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