連載 重箱のスミ ㉘

女雛 その十三

 唐衣  ~その二~

 前項㉗で五つ衣に触れましたが、平安時代からこの五つ衣と単、表着、唐衣の色柄の組合せ、かさね方は当時の女性たちもかなりこだわっていたようで、多くのコーディネート本が著わされています。有名なのは平安時代末期の源雅亮(みなもとのまさすけ)著の「満佐須計装束抄(まさすけしょうぞくしょう)」で、他にも室町時代中頃、一条兼良(いちじょうかねら)の著わした「女官飾抄」、室町時代末期、聖秀尼宮(しょうしゅうにのみや)の「曇華院殿装束抄(どんげいんどのしょうぞくしょう)」などがあります。これらをまとめられた京都市立芸術大学・故長崎盛輝名誉教授の著書「かさねの色目」はわたしたち人形関係者の聖書(ばいぶる)となっています。この「かさね」には「重」と「襲」の二通りの漢字が与えられています。「重」は一枚の袷(あわせ)の衣の裏表のこと、「襲」はその衣を何枚も着装して表される衣の色の組合せのこととされ、今ではこの二通りの文字でその意味がわかるようになっています。

「かさねの色目」の中の「満佐須計装束抄」  原本は実際に染められた布地が貼られています。

美しく見える着物のかさね方が何十通りも記され、それぞれ優雅な名前がついています。平家物語などに女性の装束の説明がよく出てきますが、これがあるとカラフルにその姿が想像できます。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

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連載 重箱のスミ ㉗

女雛 その十二

 唐衣  ~一~

  フォーマルなショートジャケット

 「からころも」または「からぎぬ」と読みます。十二単装束の一番上にくる、丈の短いコートまたはジャケットのようなもので、ほぼ必ず裳と一緒に着られます。裳(も)のところで述べたように、この唐衣には帯や紐はついておらず、裳の帯で締められます。

 令和天皇の即位礼でも見られたように、装束の一番最後に唐衣の上から裳でまとめられますが、古い絵巻などでは裳を付けた後、その上から唐衣を着たようなものもあり、時代によって着方もいろいろあるのかもしれません。

 雛人形では、この唐衣とその下の表着(うわぎ)、さらに袖・襟口に出る五つ衣の色・柄の組み合わせが作者のセンスが問われるところです。さらには、男雛の装束とのバランスも重要となってきます。有職系の雛人形の場合、男雛の束帯に表される位などに女雛も強く影響されます。この辺りの「格」を理解していないと妙なバランスの内裏雛(男雛女雛一対)になってしまいます。

めずらしく、このお雛さまは裳の上に唐衣を着ています。オレンジ色の部分。

 

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連載 重箱のスミ ㉖

女雛 その十一

  鳥毛立女屏風(とりげたちおんなびょうぶ・とりげりゅうじょびょうぶ)について

重箱のスミ ⑳でふれた鳥毛立女屏風について追加のご説明です。

 この屏風は、画工が顔、手足などを描き、衣服の線を薄墨で描いた上に工匠が羽毛を貼り付けて作られています。羽毛は日本産の雉(きじ)と山鳥が使われており、高さは四尺六寸(約一三八センチ)一扇の巾が一尺九寸(約五十七センチ)で、今はばらばらになっていますが元は六扇がつながったものだったそうです。DNA鑑定によって日本の鳥の羽毛で作られたことがわかり、それによって日本製であることが証明されたのです。まさに「へえ~」ですね。

 同じ時代に「鳥毛篆書屏風(とりげてんしょびょうぶ」と「鳥毛貼成文書(屏風(とりげてんせいもんじょびょうぶ)」という、文字の上に鳥毛がほどこされた屏風ががあり、いずれも正倉院の御物(ぎょぶつ)になっています。中国にはこうした画法の屏風はないようで、わが国独特の絵画工芸です。

 あとで屏風のあれこれに触れますが、このころからすでに屏風の基本形は六扇(六曲)でした。

鳥毛立女屏風の一部(写)

 

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連載 重箱のスミ㉕

女雛 その十

 檜扇(ひおうぎ)

 檜扇は、男雛が持つ「笏(しゃく)」という板が発展したものと言われています。現在では宮司さんが読む祝詞は紙に書いてありますが、昔は笏に書かれていたそうです。この祝詞が長いと一本の笏に書ききれず、何本かの笏に書かれることになり、それを要(かなめ)で綴じたのが檜扇のはじまりといわれています。平安時代には女性の必携品となり、扇子のようにあおぐよりも顔を隠す役割の方が大きかったようです。男性がのぞき見しているのに気づいて、あわてて顔を隠すのに檜扇が間に合わず髪の鬢(びん)で隠すようなこともあったようです。

 実際の檜扇もそうであるように、扇の両端には松や橘の造花が飾られ、長い五色の紐がさげられています。畳むとき、この紐でくるくると巻くためです。

 日本で紙が作られるのは奈良時代以降です。また、仏教が伝来する6世紀ころまで、日本には「文字」がありませんでした。したがって、そのころの日本の様子は「魏志倭人伝」はじめ、中国や朝鮮の記録に依って窺い知るしかありません。8世紀初頭に書かれたという「古事記」は、稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう)するのを太安万侶(おおのやすまろ)が書き取り、編纂したと言われています。誦習は暗誦とはちょっと違うようで、それまでにあった色んな資料を調べ、まとめたものを口述筆記したということらしいです。

 古事記、日本書紀がわが国ではもっとも古い書物なのですが、それ以前の7世紀に「帝記」「旧辞」という書物があったとされ、それらに記されていた内容と口伝が記紀にまとめられたと言われています。      ~つづく~

 

檜扇  手描きで松竹梅鶴亀などが描かれ、松橘の飾り花と五色の紐がついています。

お人形によって、いろいろなタイプのものがあり、有職系のちゃんとしたお雛さまにはこのような檜扇がつけられます。

 

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連載 重箱のスミ ㉔

女雛 その九

 裳(も) ~七~

 お雛様の場合、八枚の裂地を縫い合わせて裳を作るのはたいそう面倒なので、一枚の裂地で済ませるのは仕方がないのですが、この裂地の左右の端っこを大腰に折りたたんでまとめないで、ぴらぴらと出しているものがよくあります(写真)。なぜ、大腰にまとめておかないのか不思議です。後ろから見た時に未完成品なのか?と思ってしまいます。これを大腰に折りたたんで、きゅっと結んであると、後ろ姿がとてもキュートになります。

 令和天皇の即位式などで見られたように、女性皇族の十二単や男性の束帯姿はわたしたち日本人にはとても格調高く、美しく見えます。しかし、即位式や新嘗祭など宮中三殿に参るときには、この十二単や束帯を着装するのはかなり大変なことなのです。

 男雛の章で述べたのと同じように、女性も「次(つぎ)」「清(きよ)」のしきたりは厳格に守られ、ご自分で着ることはできません。女官たちに着せてもらった後、檜扇(ひおうぎ)をたたんだ状態で両手に持ちます。このとき、袖から手首が出ることはありません。   ~つづく~

裳の端のぴらぴら

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連載 重箱のスミ ㉓

女雛 その八

  裳(も) ~六~

 裳には帯(紐)が何本か付いていますが、小紐は近世になって付けられたもので、装束を着て裳をつけて衣裳をまとめるとき、まずこの紐で結びます。形を整えて、小腰(こごし)という裏も表も唐衣と同じ裂地でできている帯を前で結び、余りを垂らします。結ぶときにどうしても一部裏側が出ますので、裏表同じ裂地でこしらえた方が見た目がきれいだからでしょう。同じ裂地を使うので唐衣についている帯と思われがちですが、この帯は裳についていますので、唐衣と裳は常にセットで用いられることがわかります。

 さらに、引腰(ひきごし)というよくわからない飾り紐が二本ついています。これは、現代では後ろへ裳の上に垂らしています。この引腰は中世以前にはなかったとされていますが、室町時代頃に、この引腰を肩から前にわたして胸の辺りで結び、裳を肩から下げるようにつけた、その名残りと言われています。懸帯(かけおび)と呼ばれるもので、今でも胸の前でこの懸帯を結んだ雛人形を見ることがあります。しかし、肩から掛けるにしても帯で結んでおかないと、裳がずり落ちると懸帯がのどにひっかってしまいそうで、この説についてはちょっと疑いが残ります。(図)

 中国や韓国の時代劇を観ると、王様に仕える女性たちがふわふわとした細長い布を肩からかけていることがあります。おとぎ話の乙姫様たちもよくこのふわふわした布を肩にかけています。これは、本当かウソかわかりませんが、王様が食事のときにハエがたからないようにおそばでこの布を振り回すためだそうです。このふわふわの布が後に懸帯に発展したという説をなにかで読んだことがあります。なるほど、ありそうな話ではあります。韓国の映画で、この布を武器にして戦う女性の姿もありましたね。

懸帯のついた女雛。きれいな刺繍入り。

 

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連載 重箱のスミ  ㉒

女雛 その七

 裳(も) ~五~

 鳥毛立女や、小野小町が京都の時代祭りでまとっているジョーゼットでできたスカートのような装束、これは単(ひとえ)の巻きスカートになっています。唐風の装束ですが、九百年代になると装束も次第に和風に変化し、この巻きスカートが形式化して腰の後ろを飾る裳(も)になりました。唐風装束ではこの巻きスカートで衣裳をまとめていたので、後に腰の後ろだけを飾る裳になってからもそこに付いている帯で衣裳全体をまとめるやり方は変わらず、現在まで同じかたちで残っています。

 この裳は写真のように、八枚の細長い裂地を縦に縫い合わせた大きな布地と、大腰という背中にあてる板、小腰、引腰の二種の帯、それに小紐という紐でできています。長い裳は欧米のゴージャスな結婚式で見られるような長いスカートのウェディングドレスを連想します。洋の東西を問わず、このかたちは女性をより美しく見せる働きがあるのかもしれません。

 もとは巻きスカートなので、腰回りを一周半から二周するためには八枚の裂地を縫い合わせる必要があり、これが平安時代になって後ろ側にまとめるようになっても同じ形状で作られ、これによって生み出される畝(うね:ギャザー)が美しいラインをかたち作っています。雛人形でも、丁寧に作られているものは裳が八枚の細長い裂地を縫い合わせて作られています。  ~つづく~

美しい裳と後ろ姿。めずらしく唐衣が裳の上に着せられているので大腰などが見えませんが、作者の製作意図が感じられます。付け加えるならば、最近のお雛さまにはこの裳の端に着付け師の名前を書くことが多いのですが、せっかくのお雛さまの美しさが半減します。箱にも「立札」にも名前がかかれていますので、美しいお雛さまの場合は人形本体の「見えるところ」には書かない方が良いように思います。

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連載 重箱のスミ ㉑

女雛 その六

裳(も) ~四~ 世界三大美女?

今回は「裳」とは関係ない余談です。もともと、この「重箱のスミ」はどうでもいい余談ばかりですけど、前項で小野小町にふれたのでちょっとだけ・・・

小野小町は世界三大美女(※)の一人と言われ、多くの男性たちから求愛されながら振り続けた話で有名です。そのことからか、彼女は膣欠損症ではないかといわれ、糸を通す穴のない針をマチ針(小町針)とよぶようになったという俗説もあります。日本中に「ここで亡くなった」という、最もたくさんのお墓があるといわれる伝説の美女です。

(※)世界三大美女

クレオパトラ、楊貴妃、小野小町と言われますが、一体だれがその三人を見たことがあるのでしょう。時代も千数百年の開きがあります。写真でもあれば比較できるのですが・・・この世界三大~という言い方も日本独特のもので、海外ではほとんど言われていません。

ちなみに、白居易(はっきょい・白楽天)の長恨歌に「傾城(けいせい)」という言葉が出てきます。国を傾けてしまうほど美しかった楊貴妃と玄宗皇帝のことを詠んでいます。ここから、歌舞伎では美しい花魁(おいらん)のことを傾城と呼ぶようになりました。演目にも「傾城阿波の鳴門」とか「傾城反魂香(はんごんこう)」などがありますが、ここでいう傾城は単なる遊女ではなく美しさもさることながら、高度な教養や茶華道俳句などの文化的な素養も兼ね備えたスーパーモデルのような存在として描かれます。ですから、花魁道中ではその姿を一目見ようと黒山の人だかりとなるわけです。  ~つづく~

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連載 重箱のスミ ⑳

女雛  その五

  裳(も) ~三~  鳥毛立女屏風

 正倉院の御物に有名な「鳥毛立女屏風(とりげたちおんなびょうぶ・とりげりゅうじょびょうぶ)」があります。教科書にも載っている、日本で最も古く、有名な絵屏風のひとつです。これが描かれたのは聖武天皇の時代とされています。羽毛の断片のDNA鑑定などによって、わが国で製作されたことがわかっています。八世紀の半ばではないでしょうか。平安時代の直前です。

 百人一首では小野小町は十二単の姿で描かれています。小野小町は西暦800年代前半の生まれのようです。つまり、鳥毛立女は小町の数十年から百年ほど前に描かれており、小町のおばあさんかひいおばあさん世代の姿であろうと推測できます。ここから平安時代初期のころには、鳥毛立女屏風のような姿が貴族の女性の一般的な装束だったと考えられており、京都の時代祭りでも小野小町の装束はそれに近いものになっています。百人一首は鎌倉時代以降に描かれているので、小町の時代の実際の装束が描かれてはいないのです。  ~つづく~

鳥毛立女屏風(写)

頭髪や衣装のところには山鳥の羽毛が貼り付けられていました。裳の説明にはどうしてもこの衣裳が必要です。

ちなみに、これは高さ1メートル60センチほどの六扇(六曲)屏風の内の一扇です。この「重箱のスミ」でも後で触れますが、屏風はこの六扇が古代から基本形です。

 

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七夕茶話会

6月30日、七夕茶話会でした。 テーブル茶道の先生を囲み、堅苦しくなくお茶(お薄)を楽しんでいただきながら七夕のことをちょっと知っていただくひととき・・・短冊を書いていただいたり、なつかしいでんぐりや紙切り子などにふれていただいたり、笑い声が絶えないひとときでした。

飾りについている葉っぱは「梶」の葉です。

七月六日は当店で七夕のお香のワークショップ、七日は「納屋橋COLORS」さんで七夕のワークショップがあります。お待ちしてます!