鯉のぼり ~その二~
上皇様の初幟(はつのぼり)

橋本弥喜智商店さんの鯉のぼり
眼は下を見下ろすのです
内田百閒(ひゃっけん)の「東海道刈谷驛(かりやえき)」という本の中に、皇居にひるがえる鯉のぼりを見た話が出てきます。今の上皇様(平成天皇)の初節句のときです。鯉のぼりを建てるにあたって、八王子から大きな長い竹竿が運び込まれたことも当時話題になったようで、その竿につけられた吹流しと鯉のぼりが五月の青空に翩翻(へんぽん)とひるがえる様子が描かれています。上皇様はお姉さま(内親王)が四人続いたあとのお誕生だったので、皇室はもとより国民の祝意もことのほか大きかったようです。
「宮城(きゅうじょう)の右寄りの盛り上がった樹冠の上に大きな端午の鯉と吹流しが、南の方を頭として薫風に泳いでいるのが目についた。~中略~皇室のおよろこびがその初幟(はつのぼり)の鯉の姿に表はれているようであった。」
さしも偏屈な百閒さんも、たいそうお喜びだったようです。
この鯉のぼりが何匹だったかは描かれていません。たぶん、この時代ですと吹流しに黒鯉と赤鯉の三匹(旒)だったでしょう。まだナイロン鯉の登場する前ですのでもちろん木綿の鯉です。埼玉県加須市の橋本弥喜智商店さん(平成二十八年廃業)が、昭和八年に鯉のぼりを皇室に納めておられるのでその鯉のぼりかもしれません。「初幟」という題がついていますので、今の上皇様の昭和九年の初節句の様子です。お誕生日は昭和八年十二月二十三日なので、お誕生のお知らせを聞いてすぐさま年末に納められたことになります。
百閒が鯉のぼりをどこから見たのかはわかりませんが、相当大きな鯉のぼりであったにちがいありません。橋本さんに聞いておけばよかったと悔やまれます。たぶん、四間(七メートル二十)か五間(九メートル)くらいでしょうか。もっと大きかったかもしれません。吹流しは五色のものです。
橋本さんは鯉のぼりのことを「鯉が竜門の滝を登って龍になる寸前の姿を表さねばならない」と言っておられましたが、その通りの勢いのある鯉のぼりを作っておられました。ナイロン鯉と違ってただでさえ重みのある木綿の生地に絵具で直接、描いておられたのでちょっとくらいの風ではなびかない重厚感のある悠然たる鯉のぼりでした。
他の節句飾りと違って、鯉のぼりは民間から生まれたものです。江戸時代後期に、江戸の町民がしゃれっ気で鯉の滝登りの絵が描かれた大きな幟のてっぺんに、天に跳ね上がったように小さな鯉をくくり付けたのが始まりと言われています(前項参照)。天に跳ね上がったのだから、いっそ龍のかたちにして「龍のぼり」にしていたらもう少し違った発展を遂げたかもしれません。町人の間から生まれたものですので、龍のかたちをしたものを揚げるのは憚られたのでしょう。
節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ
これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。
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鯉のぼり ~その一~
鯉の吹流し

江戸時代末期、名古屋 本町通りの端午の節句のようす
鯉が幟や鍾馗旗に一匹ずつくくりつけられています
猿猴庵画「大にぎわい 城下町名古屋」より
「鯉のぼり」とわたしたちは当たり前のように呼び慣わし、昔からある言葉のように思っていますが、実はそんなに古い言葉ではないようです。昭和十七年発行の「大言海」には「こいのぼり」の語は載っていません。びっくりです。かわりに「こひのふきながし」として鯉のぼりのことが掲載されています。このころには現在の形に近い鯉のぼりは存在していましたので、「鯉のぼり」という言葉だけがまだ一般的ではなかったのでしょう。鯉のぼりがあったといっても、現在のナイロン製の鯉はまだありません。木綿や和紙でできた鯉のぼりです。
明治三十四年、滝廉太郎作曲、東くめ作詞の文部省唱歌「鯉幟」が私が確認できた最初の「こいのぼり」です。
「こひのぼり」
大きな黒い 親鯉に 小さな赤い 鯉の子が
いくつもついて 昇って行く 海の様な 大空に
という歌詞です。いまはあまり歌われないですね。有名な「いらかの波と雲の波~」の歌は、この少し後の大正二年に出されています。
歌では鯉のぼりという言葉が出てきているのに、辞書には載っていないという不思議な現象がおきています。歌によって新しい言葉が社会に普及していくということはよくあることのようです。
鯉のぼりの誕生は、江戸時代の後期に「鯉の滝登り」が描かれた大きなのぼり(幟)のてっぺんからポンと大空に飛び出したように鯉を一匹つけたのぼりが始まりであったようです。実際には「鯉の吹き流しの付いたのぼり」であったために、正確な言葉が要求される辞書では「鯉の吹き流し」としか掲載できなかったのでしょうか。江戸時代末期に活躍した安藤広重の絵に一匹の黒い鯉が空に翻(ひるがえ)る様子が描かれていますので、このころにはのぼりから独立して鯉だけを建てる現在の鯉のぼりの原型となるものが江戸にはあったものと考えられます。
明治になるとこの黒い鯉に親子のように赤い鯉が加えられます。前出の滝廉太郎の歌にあるような鯉のぼりですね。これに五色の吹流の付いた鯉のぼりのセットが売られるようになるのは昭和に入ってからです。このころまで鯉のぼりはほとんどが木綿製でした。(もしくは紙製)
そして、昭和四十二年、ナイロン製の鯉のぼりが発売され、鯉のぼりは爆発的に広がります。それまで木綿に色を付け川で糊を流すという生産性のあがらないやり方から、ナイロン裂地に印刷し、裁断してミシンで縫製するという方法になったのです。色や模様も一気に増え、黒と赤だけだった鯉に青や緑、オレンジなどが加わって現在のような鯉のぼりになりました。
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弓と矢 ~その四~
弓矢というか、銃とミサイル
以前、「現代の戦争では兵士が銃で撃ちあうなんてことはなく、離れたところからミサイルで敵の軍事基地を的確に攻撃するので安全だ」というわけのわからないことを言った総理大臣がいました。そんな漫画みたいなことがあるはずないことは、今も世界中で起きている現実の戦争が証明しています。仮にそういうことができたとしても、破壊したところに最初に行くのは前線の兵士です。昔も今も、彼らは破壊された建物の陰から狙い撃ちをされるのを覚悟していかねばなりません。
かつて山口瞳は戦争について、「私は銃を持った敵兵(それは相手国の八百屋の息子)を、銃で殺すのはいやだ。私は棒を持って戦い、撃たれて殺されるならしょうがない」というようなことを言っていました。戦争が起これば、前線で殺し合うのは相手国の八百屋の息子と自国の魚屋の息子です。戦争している間だけかれらは軍人と呼ばれ、死んだら英霊と呼ばれます。相手の国の八百屋の息子たちを殺したい人たちは、自国の魚屋の息子たちに、弾の飛んでこないところから命令を出します。魚屋の息子の代わりはいくらでもいるが、自分の代わりはいないと思っているからです。
我が国の中世、戦国時代の戦は武士(軍人)だけで行われ、あらかじめ戦う場所も決められ、両者に圧倒的な戦力の差があれば戦わずに降伏するという、いわば理にかなった戦いでした。降伏したからと言って、当時、世界中でおきていた戦争のように一族郎党皆殺しになるということはなかったので、安心して(?)降伏できたのです。というようなことは一面的な見方なのですが、そうした理性を働かせる民主的(?)な合議制があったことは事実です。
究極、戦争を回避するためには山口くらいの覚悟が必要なのかもしれません。殺される前に殺すという、勇敢でその場限りの大義で鼓舞される熱気は、それ以上の正義と覚悟を持った指導者の「わが国の息子たちはひとりも死なせない」という強固な信念のもとに否定されなければなりません。いま、世界中で起きている戦争を見れば、結局、実際に殺し合っているのは、一握りの政治家によって軍人と名付けられた八百屋の息子と魚屋の息子たちなのです。
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弓と刀 ~その三~
弓矢

矢に用いる羽根の柄の名前の一部。
(東洋文庫 貞丈雑記3より)
このように、弓は武士の誉れでもありました。矢も、鉄砲の弾のような消費物ではなく、一本一本職人が丹精し主要な矢には武将の名前も書き入れられました。矢の羽根も美しく揃えられ、主に鷹の風切羽根が用いられるのですが、その文様によってひとつずつ名前もつけられています。(画像)
余談(一) みたらし団子の語源。みたらし団子は御手洗団子と書いて、昔、下加茂神社の脇を流れる御手洗川(お参りの前に手を洗う川)にお祭りの時に団子屋さんが出て、そこから「みたらし団子」というようになったというのが通説です。一方、弓のことを古語で御執(みとらし)といい、なまって「みたらし」とよぶようになりました。そこで、串を弓に見立て、みたらし団子というようになった、という説もあります。どちらでもいいけど、ちょっと楽しいです。
余談(二)。平家物語をはじめ昔の戦闘のときにはあらかじめ、その戦場となる周辺の百姓の建物などは引き倒されたり、燃やされたりする場面が必ず出てきます。現代の戦争でも同様で、建物があるとその陰から狙い撃ちをされる恐れがあるので徹底的にこわされます。で、家を焼かれた百姓たちはどうするかというと、離れた丘の上などから戦況をじっと見守ります。そして、戦闘が終わると同時に倒れた武士の刀や弓矢、鎧兜を奪いにわーっと殺到します。矢一本、矢尻一個でも丹精込めたものは町で高く買ってもらえます。まして、鎧や刀はなおさらです。まだ息がある者はとどめをさされてはぎ取られます。究極のリサイクルです。百姓にとって敵も味方もへったくれもありません。ですから、いくさは百姓にとってそんなに悪いものではなかったのかもしれません。現代では、戦いの後に金目のものが残されることはそんなにありませんので、破壊された町の住民は悲惨なことになります。
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弓と太刀 ~その二~
弓矢

籐巻竹製弓 天然矢羽根 尖根の矢尻
刀とともに、弓は武将の必須科目のひとつです。平家物語や源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)に出てくる那須与一(なすのよいち)や義経の弓流しの話は有名です。与一は屋島の戦いで平家の舟に掲げられた扇の的をみごと射貫き、義経は同じ戦いの場で海に落としてしまった弓を危険を承知で拾いに行きます。これは義経は非力だったので源氏の大将の弓がこんなに弱いものと笑われるのが名折れだからという話です。また、龍頭のところで出てきた藤原秀郷こと俵藤太も弓の名手です。ムカデの頭の同じ一点に三度過たずに矢を当てたのですから。この秀郷の弓は五人引きという剛弓といわれていますが、歴史上(?)もう一人五人引きの弓の名手がいて、それが源為朝(みなもとのためとも=頼朝の叔父)です。父・為義とともに崇徳上皇方につき、兄・義朝の後白河天皇方と保元の乱で戦います。ニメートルを超す大男で力も強く、一本の矢で鎧を着た二人を串刺しにしたり、大きな船を沈没させたりしました。
弓矢と言えば、三十三間堂の通し矢が有名です。ここで有名なのは星野勘左衛門茂則です。江戸時代初期、以前に自ら打ち立てた記録六千六百六十六本が塗り替えられたため再度挑戦し、八千本の大記録を打ち立てます。この記録も、将来だれかに塗り替えられるためにキリのいいところでやめたと伝えられています。実話みたいです。西尾の出身で代々尾張藩士、お墓は名古屋の平和公園内にあります。
太刀と同じように、節句で飾る弓矢には儀礼用の様式が必要です。弓と矢、それに弦巻(つるまき=弓の弦を巻いておく円いもの)が組み合わせられます。この中で大切なのは「鏃(やじり)」です。魔障はきらりと光る鏃を恐れると言われています。そして鳴弦(めいげん、つるうち)という儀式があるように、弦の響く音も恐れます。これらが組み合わさったものがお節句には飾られます。
余談。義経が海に落とした弓を危険を顧みず拾おうとした話ですが、子供のころなんでそれが義経の弓だとわかるんだろう?と不思議でした。大きないくさのあとには、弓は何本も落ちていたはずです。それは、弓に名前が書いてあるからです。戦地で大勢の武士が集まったとき、身長や力量に応じて弓もいろいろあったことでしょう。その中で、だれの弓か分かるように名前が書いてあったわけです。高価な矢にも名前が書かれていたとあります。
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弓と太刀 ~その一~
太刀

太刀。
分銅鍔、彫金、覆輪の鞘。

太刀。
分銅鍔、鳥頭の柄、木製梨地塗覆輪の鞘。
お節句の飾りの鎧や兜につきものの弓と太刀。男雛のところでも触れましたが、太刀のお話です。(重箱のスミ 12 をご参照ください。)
お節句に飾るのは、実は、「刀」ではなく「太刀」、その中でも「飾り太刀」と呼ばれる儀礼用のもので、いくさをするための刀とは少し違うものなのです。太刀は、刃を下にして革や紐で帯にぶら下げて着けます。「佩く(はく)」と言います。対して、刀は刃を上にして帯に「差し」ます。博物館などで展示するときも、これに従って太刀は刃を下にして展示します。
公家の文化に倣って、戦国時代以後でも元服や男子誕生のときなどに、この飾り太刀を奉納し、成長を祈願しました。
様式的には、鍔(つば)が分銅のかたちの分銅鍔、柄(つか・にぎり部)は紐を巻かず、鮫皮や金属、先端が鳥の頭のものなどがあてはまります。鞘も金属製であったり、木製でも蒔絵や梨地塗、覆輪(ふくりん)などの装飾が施されています。ときどき時代劇で浪人がさしているようなチャンバラ用の「刀」が節句用に飾られているのを見ますが、お節句のお祝いには「縁起」や「様式」が大切なので、こうした「飾り太刀」を飾っていただきたいものです。
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馬と虎 ~その五~
張子の虎

張子の虎
令和四年、寅(とら)年を迎えた新春、島根県の出雲地方に伝わる郷土玩具「張子虎(はりこのとら)」が、公開された天皇ご一家のお写真に登場し、地元の関係者を喜ばせました。しかし、時すでに遅く出雲張子の後継者はもうおらず、この虎もずっと以前に高松宮家に伝わっていたものが今も天皇家で保管されているということです。
張子の虎は干支にあたるときの飾り物としてだけでなく、端午の節句のたびに「もっとも強い動物」として飾られてきました。また、「虎は千里を走り千里を帰る」と言われています。相場の上がり下がりを表す言葉にも使われるくらいですから、昔からよく使われていた言葉なのでしょう。戦時中には、出征する息子のために千人針を縫ってもらおうと、寅年の女性にお願いして回ったというお話もあります。かならず無事に帰って来るようにという、わらにもすがる親心からでしょう。
五月人形にかつては加藤清正もよく登場しました。虎と戦っている姿が多いのですが、朝鮮出兵の折り、出くわした虎を退治しているところです。そして、必ず手に十文字槍を持っていますが、この片方が折れています。これは、この虎退治のとき虎に槍の穂先のひとつをかみ砕かれたのだと言われています。名古屋城正門を出た能楽堂の南に、独特の長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)を被った清正像があります。名古屋城を築いたと言われていて、名古屋にはご縁の深い方です。
馬が桐塑(とうそ)や木彫りで作られるのに対し、虎は張子です。首はゆらゆらと動くようにできていてユーモラスな感じさえあります。
この張子という民芸・工芸品も各地で絶滅の危機にあります。かつては「ダルマ」や「犬張子」、節分やお祭りのときの「お面」など多くの種類があり、子どものおもちゃとしても使われてきましたが、次第に衰退し高崎のダルマなど大きな産地は数か所をのこすだけになりました。しかし、張子作家・荒井良氏の作品が京極夏彦氏の本の表紙に用いられ注目を集めたことから、美術を志す若い人たちが興味を示すようになってきたのは一筋の光明です。
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馬と虎 ~その四~
白馬の節会

白馬の節会と同じ姿の白馬です。
前回で触れた白馬の節会(あおうまのせちえ)とは、一月七日に帝が二十一頭の白馬をご覧になるという行事です。最初は白い馬をご覧になったのですが、鹿とか雉(きじ)、鳩など突然変異種の白い動物(いわゆるアルビノ)も縁起が良いとしてこの日のために全国から奉納されました。現代でも、上加茂神社や住吉大社などいくつかの神社で同日、画像のような姿の白馬を曳行して邪気を祓います。
現代では一月七日は「人日」となっていますが、平安時代には人日は存在せず白馬の節会、あるいは初子(はつね)の祝いとして祝っていました。年の最初の子(ね)の日には主に女子、子供、年寄りが野に出て若菜を摘み、それを七草粥としていただき、また、腰が曲がらないとして松の木に腰をこすりつけるおまじないをしました。
白馬節会と子の日の祝い、そして人日は同じ日の行事ですがそれぞれ別のものです。ですから、人日なので七草粥をいただくというのは、同日の行事なので構わないと言えば構わないのですが、本来は関係のないことがらなので「子の日の祝いだから七草粥をいただく」というのが正しい言い方のように思います。
かつては子の日の祝いは年の最初の子の日に行われていたのですが、平安時代の初期には一月七日に固定されました。同じようなことは他にも見られます。ひな祭りは元は「上巳の節句(祓え)」であり、三月の最初の巳の日に行われていたのですが、のちに三月三日に行われるようになりました。それは、三日に行われていた「曲水の宴」と一緒にした方がより楽しい一日になるからでしょう。あるいは、同じ日に行うことで手間を減らす、経費節減のためだったのかもしれません。
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馬と虎 ~その三~

馬と武者
手作りの桐塑の胴体に越前和紙を用いて毛並みを
表現した馬です。足にわらじをはいています。
一月七日の白馬(あおうま)の節会はその名が示すように白馬が中心の行事です。端午の節句でも最初は白馬が中心だったようですが、次第に足の速い馬、立派な体格の馬が珍重されるようになります。やはり、競走に勝つとか、乗ったとき堂々として見える大きな馬の方が喜ばれるのですね。
江戸時代に入り、お節句に神功皇后などの人形や大将を飾るようになると、馬も一緒に飾るようになったのは必然です。神功皇后の人形の多くは馬に乗っていますが、このときも縁起にしたがって白馬です。武人にとって大切なものであると同時に、産まれてすぐに自分の脚で立つという強健さも好まれた要因のひとつです。
なぜ、白馬と書いて「あおうま」と読むのでしょう。これには昔から色々な考察があります。南方熊楠は「十二支考」の馬の章で「白馬を『あおうま』とのみ訓みしは、『平兼盛家集』に『ふる雪に色もかはらで曳くものを、たれ青馬と名づけ初めけん、高橋宗直の『筵響録』巻下に室町家前後諸士涅歯(でっし=お歯黒)の事を述べて、白歯者と書いて『アオハ者』と訓ず、白馬を『アオ馬』というがごとしといえるにて知るべし。」(「十二支考」講談社学術文庫)と書いていますが、白=青の理由については触れていません。だれの考察か忘れましたが、降り積もった雪の影の部分は青く見えるところから白=青になったのではないかというのもありました。
馬は人を乗せた状態で時速六十キロ以上で走ることができます。人が乗れる動物で最速です。馬の足は四本ですが、他の動物と違い、馬の足はスピードを上げるために独特の進化を遂げました。足の先にヒヅメがありますが、まさにこれは馬の爪で、ヒトで言えば中指の爪なのです。前足の場合、肘に見えるところはヒトの手首、そこから先は指なのです。つまり、馬は四本足の中指の爪で立っているのです。ときどき競走中にころんで足を折ることがあります。立つことのできなくなった馬は生きていくことができないのでその場で薬殺されることがあります。動物愛護の視点からはどう映るのかわかりません。苦しませないようにとの配慮からだと聞いたことがあります。とても繊細で賢い動物です。
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馬と虎 ~その二~

現代の馬師によるお節句用 飾馬
馬と言えば有名なのは山内一豊(やまのうちのかずとよ)の妻のお話です。一豊は愛知県岩倉付近の出身の方です。信長が馬揃えのために良い馬を集めていることを聞きつけた馬商人が、東国一といって連れてきた馬があまりの値の高さに誰も買い手がつきません。それを聞いた一豊の妻が持参金をはたいてその馬を買い求めました。それを聞いた信長が「信長の家臣ならば買ってくれるだろうと持ってきた馬を、浪人の身でありながらよくぞ買ってくれた。織田家も恥をかかなくて済んだ」とほめたたえたというお話です。馬の名前を「鏡栗毛」といいます。きっと鏡のようにぴかぴかの栗毛馬だったのでしょう。当時、東国の馬の産地は、甲州、上州、奥州で、甲斐の武田の騎馬隊は有名です。
もう一つ、忘れてならないのは曲垣平九郎(まがきへいくろう)の愛宕山(あたごやま)の出世階段のお話です。将軍家光が増上寺参詣の帰り道、愛宕山の上に咲く梅に気付き、「誰か馬であの梅を採ってくる者はおらぬか」というと、曲垣平九郎という若者が「拙者が」と急な石段を馬で登って取ってきます。家光は「日本一の馬術の名人よ!」と褒めたたえたということです。今でもその石段はありますが、とんでもない石段です。お話は作り話ではないかと疑われていましたが、その後、明治、大正、昭和と三人の馬術名人が実際に上り下りし、おそらくその話は実話ではないかとされています。新橋・虎ノ門森タワーの近くにあり、今も「出世の石段」と呼ばれています。
このように、立派な馬を持つこと、馬を乗りこなすことは武士の面目のひとつでした。
香川県や愛媛県の一部では、いまも八月一日に「八朔(はっさく)」、「馬節句」といって、もち米で作った馬を贈る風習があります。飾りをつけ後ろ足で立つ大きな飾り馬で、業者もいるのですが自分たちで作る方もいらっしゃいます。馬を飾るのは、この曲垣平九郎は讃岐高松藩の家臣でしたので、その影響もあるのかもしれません。こうした行事は大切にされたいですね。
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