連載 五月人形の重箱のスミ 84

甲冑 兜 ~その二十一~

兜櫃 ③

シンプルな飾り方ですが、ここにも

様式があります(木馬はオプション)

 前回に続き、今回は節句飾りのしきたり:様式についてすこし・・・

 最近の端午の節句飾りは兜が多くなりました。飾るスペースの問題や、「あかちゃん用」という考えの方が多くなって、より「簡単に」、「可愛らしく」という節句飾りがふえ、様式がわからなくなってきているきらいがあります。えらそうに様式と言っていますが、茶道のように流派があって飾り方が決まっているわけではありません。こうして飾った方が伝統的、あるいは、こういう理由があるのでこのように飾った方がいいですよということです。

〈鎧・兜の選択〉

 端午の節句に鎧・兜・武者人形を一般家庭で飾るようになったのは江戸時代からです。武家では自前の鎧兜を飾りましたが、町民は小さな雛兜や木製の桧兜、神功皇后や太閤、桃太郎などの人形を飾りました。鎧・兜の場合、戦国武将のものより平安鎌倉時代の古風なものが圧倒的に好まれました。それにはいろいろな理由があります。戦国武将は評価の毀誉褒貶が定まらないことや、奉納に用いられるような古風な鎧兜の方が格段に美しいことなどがあげられます。江戸時代においても特定の武将の鎧兜の模倣ではなく、その子だけのために、古風な鎧兜をお祝い用に美しくアレンジして作られたのです。

〈櫃の上に飾る。袱紗は兜を傷めないよう台にかける〉

 その兜は、写真のように必ず櫃(ひつ)の上に飾られます。櫃に飾るときは、兜を傷めないよう櫃に置いた台の上に袱紗をかけて飾ります。その櫃には、よく「前」と描かれたものがありますが、写真のように「家紋」を入れることもあります。節句飾りは、初節句(赤ちゃんのとき)に贈られることが多いので勘違いされる方がいらっしゃいますが、子供用ではなく、生涯にわたって端午の節句の祝いに飾られるものだからです。生まれて二番目に贈られる一生物のプレゼントです(一番目は名前)。

〈屏風の飾り方〉

 屏風はお飾りになる場所によって不要な場合もありますが、飾る場合には本来は写真のように台の外側に置きます。ちゃんとした屏風には角々に金具がはめられ、釘で固定されます。この釘の頭が屏風の下にも出ています。これは、本来、塗装を施した台の上に置くことを想定していないことを意味しています。釘の頭が台を傷つけてしまいます。畳やもうせん、真菰などを敷いた上に飾るようにできているのです。しかし、これは「ちゃんとした屏風」の場合で、いまは屏風の下面にフェルトなどを貼り付けて、台の上に飾れるようにしたものもあります。

〈弓・太刀〉

 弓は武士の必須科目です。那須与一、源為朝はじめ、弓自慢の話はいっぱいあります。魔障は弓弦の音や光る矢尻を恐れるとされていますので、弓弦と矢尻は必須です。太刀は一般のさむらい用の「刀」ではなく、大将の持つ「太刀」のこしらえがされていなければなりません。できれば、柄頭(つかがしら)が鳥=鳳凰の鳥頭であったり、鍔(つば)が分銅型の分銅太刀だと理想的です。

〈もうせん=ハレの日の演出〉

 下には緑のもうせんや真菰を敷きます。お雛様には赤いもうせんを敷くことによって、お節句=ハレの日のステージができあがります。ときどき、「リビングの内装に合うように」という方がいらっしゃいますが、節句は日常と違う「ハレ」の日を演出するものですので、内装やインテリアなどの日常・日用品に合うものである必要はまったくありません。こうした様式をふまえながらも、小振りで可愛らしいものはいっぱいあります。玩具やインテリアとは一味違う節句飾りをお選びいただくことで、お子様が生涯、節句のお祝いにお飾りいただくことができます。七~八年で飾らなくなるような五月人形は節句飾りとは言えませんし、そうしたお飾りがとうてい縁起がよいとは思えません。最低限の「様式」が節句飾りに求められる由縁です。

 ちょっと説教臭くなりましたので、次回からまた重箱のスミをほじくるような楽しい(?)お話に戻ります。

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 五月人形の重箱のスミ 83

甲冑 兜 ~その二十一~

  兜の櫃 ②

シンプルな様式の兜飾り

 少し兜櫃の話からそれます。 しばしば、いつ頃飾って、いつ片付けたらいい?とか、お雛様や五月人形はどちらの方角に向けて飾ればいい?というお尋ねをいただきます。つまり、守るべき「しきたり」のことを気になさっているのだと思います。

 飾る時期については、お節句当日の二~三日前で結構です。初節句の場合、せっかく用意したのだからとひと月位前から飾る方もいらっしゃいますが、それもOKです。日柄を気にされる方はそれに従ってください。お節句の当日、例えば今年の五月五日はたまたま「大安」ですが、仏滅だろうが先負であろうが、お節句行事はそういうことには左右されずにその日に行われます(ちなみに旧暦の場合には、三月三日は必ず先負、五月五日は大安です)。

 しまう時期については、端午であれば五月六日に一年の祈りをこめてお供えをし、その後、お天気の良い、時間的な余裕のある日にとりかかってください。特にお雛さまについては昭和五十年くらいから「早くしまわないとお嫁に行き遅れる」という風説がひろまり、それが「三日のうちにしまわないと行き遅れる」となって、お母さんたちの悲劇が始まりました。きっかけはテレビである占い師が言ったそのひと言に過ぎませんでした。実際のご家庭で、夕方からお雛祭りのために友人知人ご親戚が集まりお祝いをした後、お片づけをし、赤ちゃんをお風呂に入れ、寝かしつけてからお雛さまを片付けるというのは絶対に不可能な話なのです。それを影響力のある方の不用意な発言で、それがさも昔からの「しきたり」であるかのように吹聴されて全国的に「悲惨なひな祭りの夜」が繰り広げられるようになったのです。

 まだ電気のない時代、雛人形や五月人形を片付けるのは間違いなく「昼間」だったはずです。つまり、早くとも翌日です。中には片付けるのに一日では済まないお宅もあります。少し考えれば三日の夜に片付けるのはもともと「不可能」であり、「理不尽」であることは明確です。

 正しいしまい方は、節句の翌日、「また来年」という思いを込めて再びお供えをし、それを皆さんでいただき(直会の意)、その後、お天気の良い昼間にゆっくりしまう、というものです。もし、こわれたり汚れたりしている箇所があったら、このときに業者にお願いをしてください。

 飾る方角はどちらでもけっこうです。御家族を「見守る」ような位置であればであればけっこうです。京都御所のことを持ち出して「南向き」とか、一般的な床の間のある和室のように「東向き」と言われる方もいらっしゃいます。気にされる方はそのようにしていただければよいのですが、マンションにお住いの場合、現実として物理的に不可能な場合があります。雛人形も五月人形も何か特定の宗教によるものではなく、日本人の文化、民族的な信仰によるもので、それらは「天の神様」に向けて飾るものなのでどちら向きでもいいのです。ですから、クリスチャンの方々でも拒否感なくお雛様は飾っていただけるのです。「天の神様」はとても寛容です。

 これを書いているのが五月五日で、しまう時期を迷っている方がいらっしゃるかもしれないので今回ブログにあげました。

気になる「しきたり」ですが、「様式」もその中に含まれます。この「様式」つまり「飾り方」について次回お話します。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 五月人形の重箱のスミ 82

5月5日まで営業中

6日~11日までお休みさせていただきます

甲冑 兜 ~その二十~

 兜の櫃(ヒツ)  ①

 

 本物の甲冑は櫃に納められます。鎧兜はふだんから着用しているわけではなく、イザというときに身につけて駆け付けなければなりませんので、わかりやすく、かつ、常に大切に保管しておくことが重要で櫃はそのための容れ物です。また、戦場に集まったとき、脱いだ甲冑がだれのものか一目でわかるように家紋を正面に大きく描いたりします。六本の足がついたものが多く、これは湿気から中を守るためで、正倉院のかたちと似ています。また、樽のように胴の中央がふくらんだものもよく見られます。節句などのときには、これらの櫃の上に甲冑を飾り、その姿が現在も節句飾りとして用いられています。兜だけの場合でも、同様に櫃の上に飾ります。最近の節句飾りでは、櫃を使わず板の上やしまうための箱などに飾られることがありますが、あまり縁起のよい感じは受けません。よく、櫃の正面に「前」と書かれたものがあります。これは、「臨(りん)、兵(ぴょう)、闘(とう)、者(しゃ)、皆(かい)、陣(じん)、列(れつ)、在(ざい)、前(ぜん)」という九字呪文の最後の「前」です。中国の道教からはじまり、真言密教でも用いられる「九字文」というもので、一文字ずつに意味が込められ、「前」は文殊菩薩や摩利支天を表すと言われています。それぞれに手指で表す「印(いん)」があり、「前」は軽く握った左手を右手で包むようなかたちが割り振られています。忍者が忍術を使うときの、二本指を立てた左手で右手の二本指を包み込む仕草も刀印という印のひとつです。右手が刀身、左手が鞘で、刀を鞘に納めるという意味だそうです。これをすることで、精神を集中させたりする効果が実際に認められているということです。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 五月人形の重箱のスミ 81

甲冑 兜 ~その十九~

 鎧の逆板(さかいた)

逆板(さかいた)

 

 鎧の背中を見ると、上から二段目の小札(こざね)一列はぶらぶらと動くようになっており、この真ん中につけられた金具=総角環(あげまきかん)に、両側の大袖からのびた房紐が美しく結び付けられ(総角結び)ているものがあります。両袖からの紐は「水飲みの緒」といい、うつむいて水を飲む時、両側の袖が前に垂れて邪魔にならないように結んだものです。目立たない部分ですが、「なぜ、ここだけぶらぶらしてるの?」と不審に思われる方もいらっしゃいます。総角環をとりつけるために一列余分についているのです(鎧の時代背景などによってついていないものもあります)。 鎧や兜の周囲は、小札(こざね)という穴の開いた小さな長細い板に紐を通してつなぎ合わせることでできています。この紐のことを縅(おどし)と言います。色とりどりの絹糸や革紐で美しく、中には文様を織り出すように縅したものもあります。

 通称小札ですが、平安、鎌倉のころまでは単に札(さね)と呼ばれていました。札は次第に小さくなる傾向があり、中世の札に比べて小振りなものを小札と呼んだようです。もともとは主に鉄製でしたが、重くて不便なので革製のものが室町時代には主流になりました。また、小さな一枚ずつものや、最初から一列にこしらえたものまでさまざまな小札が考案されました。節句用の兜や鎧には「和紙小札」というものがあります。実際の甲冑に和紙の小札があったかどうか不勉強でわかりませんが、恐らくは本来の革の代わりに節句飾り用に考案されたものではないかと思います。この「和紙」も、どんな「和紙」なのか、これからは検証される時代がくるかもしれません。節句用の飾り甲冑の場合、金属やプラスチックの小札に比べ、よくできた和紙小札では繊細な質感を表現することが可能です。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 五月人形の重箱のスミ 80

  [ 五月五日まで 五月人形発売中! ]

甲冑 兜 ~その十八~

 兜のクワガタ ②

美しい鳥の羽根の文様(刻印)

手打ちなので一つずつの文様がきわだっています。

微細な彫刻の龍頭にはヒゲがあり、尾には剣がついています。

真鍮板に輪郭をけびきし、文様を打ちます。

輪郭にそってハサミで切り、ヤスリで形を

整えた後、金メッキします。

 

 前回の画像のように、鍬形には大きく分けて細長い「長鍬形(ながくわがた)」と幅の広い「大鍬形(おおくわがた)」があります。鍬形には鳥の羽根のような打ち文が入っていることがあります。鷹の羽の文様といわれています。高級品だと、ひとつひとつ手で打たれており、刻印のエッジが立って美しいものです。文様が入っていないことも多いのですが、鏡面といって鏡のようなツルツル仕上げの場合や艶消しのようになっている場合とがあります。どれが高級ということはありません。鍬形は多くの場合真鍮製で、金メッキがほどこされています。わざわざ裏側に「二十四金鍍金(めっき)」と印がついていることがありますが、大切なのはメッキにかけられた時間で、この時間によって錆などに対する耐久性や美しさは大きく違ってきます。ですから、「二十四金鍍金だから良いもの」と一口に言うことができません。同じように、木製の龍頭にもよく「本金箔押」と印がついているものを見かけます。金箔にはたくさんの種類があって、ほぼ百パーセント純金の金箔はたいへんに高価ですので、龍頭の箔押に用いることはあまりありません。四号色金という箔で約十センチ角一枚七~八百円くらい(令和六年)、この箔で金の含有率が約九十五パーセントです。本来ならばこれ以上を本金箔といいます。本金鍍金、金箔押と言われるとすごく高級な感じがしますが、百均のお店でも金箔(金色の箔の意、金が含まれているとは限りません)は売られています。

 パルプや洋紙を使っても「和紙」と表示されるということもあり、素材や品質説明はお客様の常識とは次元の違うことがありますので注意が必要です。逆説的ですが、本当の高級品にこうした表示がされていることはあまりありません。本物の素材を用いることは当然のことだからです。では、どうしたらその判別ができるのか?それはお客様自身がそれを見分けられるだけの経験を積むか、あるいは意識の高い販売店(業者)に頼るしかしか残念ながら方法はありません。「金」とか「和紙」に限らず、「木製」とか「正絹」の表示もお客様の認識とかけ離れている場合が多く見受けられます。販売店や業者自身がどこまでプライドと順法精神(正しい品質表示)を持って扱っているか、そこにしか頼る術(すべ)はありません。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 五月人形の重箱のスミ 79

甲冑 兜 ~その十七~

  兜のクワガタ

長鍬形(ながくわがた)

大鍬形(おおくわがた)

 鍬形はいうまでもなく、クワガタムシの名の元になっているものです。なぜ、兜に農具のクワがついているのでしょうか。これにはいろいろな説がありますが、私は、植物のクワイ(オモダカ)が元だろうと思っています。農具のクワの名も元をただせばクワイの葉のかたちからきています。そう考えれば、農具の鍬から鍬形になったのではなく、クワイのかたちから、鍬も鍬形もそう呼ばれるようになったと納得できます。クワイはオモダカの別名で、沢瀉縅(おもだかおどし)といって甲冑の縅絲(おどしいと)の模様にも用いられるなど縁起の良い植物とされています。クワイの根茎(こんけい)はお節料理にもよく入っていて、栗のような実から一本芽が出ている姿から「芽が出る」縁起の良いものとされています。実際に栄養価も高く、江戸時代には栽培も奨励されていました。また、オモダカは勝軍草と書かれたりもしました。鎧兜にうってつけの名前です。

 また、歌舞伎の澤瀉屋(おもだかや)でもこの名が使われており、やはり縁起の良いことからつけられているのでしょうが、令和五年の事件でこの屋号の行く末も案じられます。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 五月人形の重箱のスミ 78

甲冑 兜 ~その十六~

 ちょっと宣伝

当店は五月五日まで営業しています。すでに端午の節句の販売を終えてしまったお店もあるようですが、当店は五日まで営業しています。

それは、五月四日にお誕生のお子様にとっても五日は初節句となるからです。毎年のように、五日近くにお誕生のお子様の初節句にお客様がいらっしゃいます。玩具やインテリアならいざしらず、お節句の品を扱う以上、五日まで店を開くのは節句品店の務めです。どうぞ、三日、四日にお誕生のお子様にも初節句のお祝いをしてあげて下さい。

 こんな本格的作りで可愛らしい節句飾りもございます

  9万円程(幅60cm)

手作りの木目込人形(兜に菖蒲)。

手作り木綿ののぼり旗、鯉のぼり。

雲母摺り京唐紙の屏風。

純木製(セン、エンジュ)の台(ベニヤ・MDF不使用)

 

 

鏡獅子からスピンアウト 「鏡とヘビ」

 

 この少し前のブログ~75~で鏡獅子の話が出ました。拙著「今、伝えたい節句のお話」の中でも触れたように、鏡餅開きのときに獅子の精が乗り移って舞うことから「鏡獅子」と名付けられているのですが、鏡餅はなぜ「鏡」なのでしょうか。どちらも同じように円くて大切なもの、という関連だけでは鏡餅を二段、ときには三段に積み重ねる理由がわかりません。

 ヤマカガシというヘビがいます。北海道などを除きどこにでもいるヘビですが、この、カガシというのが古来からのヘビの和名といわれています。平安時代の和名抄にはヤマカガシのことを「夜萬加々智」と載せています。

 民俗学の吉野裕子はカガがヘビの古名であるとしてさまざまな検証をしていて、その中で鏡(カガミ)とヘビとの関係性を指摘しています。鏡餅のあのかたちはヘビのトグロからきているのではないかというのです。私はヘビがあまり好きにはなれないので全面的に賛成はしかねますけれど、たしかにうなづける面はあります。少なくとも「鏡⇒鏡餅」よりは「ヘビのトグロ⇒鏡餅」の方が、形状の面では似ています。

 鏡が日本に伝わったのは弥生時代といわれていますが、ヘビの古名「カガ」がいつごろからあるのかわかりません。もし、カガの言葉が先にあって鏡の名にこの言葉を適用したのならば、それはなぜなのか。また、カガが後とすれば、なぜ鏡の呼び名にヘビを用いるようになったのか、はたまた、カガミのカガはヘビとはもともと関係なくたまたまそのような名前になっただけなのか、興味は尽きません。

 ずいぶん甲冑から脱線しましたが、次回から甲冑のお話に戻します。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 五月人形の重箱のスミ 77

甲冑 兜 ~その十五~

 敬老の日の由来

元正天皇の系図

 前回の猩々のお話とよく似た「養老の滝」伝説というのがあります。一般にはこちらの方が知られています。親孝行の息子・源丞内(げんのじょうない)が病気の父親に元気をつけようと、山へ食べるものを採りに行くと、どこやらから良い匂いが漂ってきます。匂いをたどっていくと、滝つぼに出るのですがその滝の水がなんとお酒だったのです。これを酌んで父親に飲ませるとぐんぐん元気を取り戻したというお話です。岐阜県、養老の滝にまつわるお話です。この話には続きがあって、この噂を聞きつけたのが当時の元正天皇(女性)でした。丞内は天皇からお褒めのご褒美をいただき、以来家族ともども安楽に過ごすことができたということです。元正天皇は元明天皇(女性)の娘で、持統天皇(女性)から文武(男性)、元明と続いた皇統は元正でわが国最初の女系天皇として践祚します。そして、年号を「養老」と定めました。この日が九月十五日で、敬老の日の由来になったという説もあります。元正天皇はたいへん聡明で慈悲深い方と伝えられています(続日本紀)。

 元正天皇からすると、お母さん(元明天皇)はお姉さん(持統天皇)の息子、つまり甥と結婚して生まれたことになります。お父さんの父親は天武天皇なので、単純に「女系天皇」と割り切ることはできません。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 五月人形の重箱のスミ 76

甲冑 兜 ~その十四~

 唐獅子④

猩々

 唐獅子と似たような姿のものに、「猩々(しょうじょう)」があります。こちらはライオンではなく、オランウータンが原型ではないかといわれています。ボルネオ島に生息しているので、南アジアの人々が目にし、絵で伝えられたりしていても不思議はありません。

 中国揚子江の近くの金山というところに親孝行物の高風(こうふう)という若者が父親と住んでいました。なんとか親を楽にさせてやりたいと考えていると、市場で酒を売りなさいというお告げを夢で見ます。こうしてお酒を売り始めると、次第に生活も楽になり始めますが、その客の中に毎日お店に来て酒を飲むのにちっとも酔わない男がいるのに気が付きます。不思議に思った高風が名前を尋ねると、自分は猩々という海にすむものだと答えます。そこで、ある月夜の晩、高風が酒を用意して揚子江の川辺で待っていると、波の間から猩々が現れます。二人は酒を酌み交わしたあと、猩々は高風の親孝行をほめ、「酌(く)めどもも尽きぬ」酒壺を与えて水中に帰って行きました。猩々はお酒好きなので、能や人形でも髪の毛から衣裳まで赤い姿で表されます。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 五月人形の重箱のスミ 75

甲冑 兜 ~その十二~

 唐獅子③

連獅子

 唐獅子はインドライオンかもしれませんが、仏教や能、歌舞伎では牡丹の精、聖獣と言われています。能や歌舞伎に「石橋(しゃっきょう)」という演目があります。お話は、慈覚大師や弘法大師よりも百数十年の後のこと、中国に渡った寂昭(じゃくしょう)法師が経典を求めて清涼山(せいりょうさん)の麓(ふもと)へたどり着きます。そこから山中へ入る細い石の橋があり、周囲には牡丹が咲き誇っています。寂昭法師がいざ橋を渡ろうとすると、あの赤い毛の獅子が躍り出て法師の前で舞い踊ります。ときに紅白二体のときもあり、この時は赤い方がより活発に踊ります。これは、親子の獅子で、赤い方が子獅子なのです。よく、獅子は我が子を千尋の谷底に突き落とし、無事登ってきた子だけを育てるといいますが、児童虐待ですね。ま、子を甘やかしてはいけないという教訓ととらえましょう。牡丹の精なので、よく牡丹と一緒に絵に描かれます。健さんの「背中(せな)で泣いてる唐獅子牡丹」を思い浮かべる方も多いでしょうが、本来は仏教思想に基づいた格調高い絵柄なのです。中世には勝手に用いることのできない絵柄で、この後、鎧のお話で述べるつもりですが、「正平六年六月一日」のように朝廷の許可の必要な高貴なものでした。鎧や兜の絵革の文様にはよく使われます。

 ごくたまに「天平十二年八月」と書かれたものもあります。これにも唐獅子牡丹や不動明王がよく描かれています。天平ですから、正平より古いかと思ったら、これは江戸時代に考案されたもののようで、「天平革(てんぴょうがわ)」「天平御免革(てんぴょうごめんがわ)」とよばれ珍重されたそうです。江戸時代の偽装表示です。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。