連載 五月人形の重箱のスミ 97

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鯉のぼり ~その一~

鯉の吹流し

江戸時代末期、名古屋 本町通りの端午の節句のようす

鯉が幟や鍾馗旗に一匹ずつくくりつけられています

猿猴庵画「大にぎわい 城下町名古屋」より

 

 「鯉のぼり」とわたしたちは当たり前のように呼び慣わし、昔からある言葉のように思っていますが、実はそんなに古い言葉ではないようです。昭和十七年発行の「大言海」には「こいのぼり」の語は載っていません。びっくりです。かわりに「こひのふきながし」として鯉のぼりのことが掲載されています。このころには現在の形に近い鯉のぼりは存在していましたので、「鯉のぼり」という言葉だけがまだ一般的ではなかったのでしょう。鯉のぼりがあったといっても、現在のナイロン製の鯉はまだありません。木綿や和紙でできた鯉のぼりです。

 明治三十四年、滝廉太郎作曲、東くめ作詞の文部省唱歌「鯉幟」が私が確認できた最初の「こいのぼり」です。

「こひのぼり」

大きな黒い 親鯉に 小さな赤い 鯉の子が
いくつもついて 昇って行く 海の様な 大空に

という歌詞です。いまはあまり歌われないですね。有名な「いらかの波と雲の波~」の歌は、この少し後の大正二年に出されています。

 歌では鯉のぼりという言葉が出てきているのに、辞書には載っていないという不思議な現象がおきています。歌によって新しい言葉が社会に普及していくということはよくあることのようです。

鯉のぼりの誕生は、江戸時代の後期に「鯉の滝登り」が描かれた大きなのぼり(幟)のてっぺんからポンと大空に飛び出したように鯉を一匹つけたのぼりが始まりであったようです。実際には「鯉の吹き流しの付いたのぼり」であったために、正確な言葉が要求される辞書では「鯉の吹き流し」としか掲載できなかったのでしょうか。江戸時代末期に活躍した安藤広重の絵に一匹の黒い鯉が空に翻(ひるがえ)る様子が描かれていますので、このころにはのぼりから独立して鯉だけを建てる現在の鯉のぼりの原型となるものが江戸にはあったものと考えられます。

 明治になるとこの黒い鯉に親子のように赤い鯉が加えられます。前出の滝廉太郎の歌にあるような鯉のぼりですね。これに五色の吹流の付いた鯉のぼりのセットが売られるようになるのは昭和に入ってからです。このころまで鯉のぼりはほとんどが木綿製でした。(もしくは紙製)

 そして、昭和四十二年、ナイロン製の鯉のぼりが発売され、鯉のぼりは爆発的に広がります。それまで木綿に色を付け川で糊を流すという生産性のあがらないやり方から、ナイロン裂地に印刷し、裁断してミシンで縫製するという方法になったのです。色や模様も一気に増え、黒と赤だけだった鯉に青や緑、オレンジなどが加わって現在のような鯉のぼりになりました。

 

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これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

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