連載 五月人形の重箱のスミ 98

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鯉のぼり ~その二~

 上皇様の初幟(はつのぼり)

橋本弥喜智商店さんの鯉のぼり

眼は下を見下ろすのです

 内田百閒(ひゃっけん)の「東海道刈谷驛(かりやえき)」という本の中に、皇居にひるがえる鯉のぼりを見た話が出てきます。今の上皇様(平成天皇)の初節句のときです。鯉のぼりを建てるにあたって、八王子から大きな長い竹竿が運び込まれたことも当時話題になったようで、その竿につけられた吹流しと鯉のぼりが五月の青空に翩翻(へんぽん)とひるがえる様子が描かれています。上皇様はお姉さま(内親王)が四人続いたあとのお誕生だったので、皇室はもとより国民の祝意もことのほか大きかったようです。

「宮城(きゅうじょう)の右寄りの盛り上がった樹冠の上に大きな端午の鯉と吹流しが、南の方を頭として薫風に泳いでいるのが目についた。~中略~皇室のおよろこびがその初幟(はつのぼり)の鯉の姿に表はれているようであった。」

 さしも偏屈な百閒さんも、たいそうお喜びだったようです。

 この鯉のぼりが何匹だったかは描かれていません。たぶん、この時代ですと吹流しに黒鯉と赤鯉の三匹(旒)だったでしょう。まだナイロン鯉の登場する前ですのでもちろん木綿の鯉です。埼玉県加須市の橋本弥喜智商店さん(平成二十八年廃業)が、昭和八年に鯉のぼりを皇室に納めておられるのでその鯉のぼりかもしれません。「初幟」という題がついていますので、今の上皇様の昭和九年の初節句の様子です。お誕生日は昭和八年十二月二十三日なので、お誕生のお知らせを聞いてすぐさま年末に納められたことになります。

 百閒が鯉のぼりをどこから見たのかはわかりませんが、相当大きな鯉のぼりであったにちがいありません。橋本さんに聞いておけばよかったと悔やまれます。たぶん、四間(七メートル二十)か五間(九メートル)くらいでしょうか。もっと大きかったかもしれません。吹流しは五色のものです。

 橋本さんは鯉のぼりのことを「鯉が竜門の滝を登って龍になる寸前の姿を表さねばならない」と言っておられましたが、その通りの勢いのある鯉のぼりを作っておられました。ナイロン鯉と違ってただでさえ重みのある木綿の生地に絵具で直接、描いておられたのでちょっとくらいの風ではなびかない重厚感のある悠然たる鯉のぼりでした。

 他の節句飾りと違って、鯉のぼりは民間から生まれたものです。江戸時代後期に、江戸の町民がしゃれっ気で鯉の滝登りの絵が描かれた大きな幟のてっぺんに、天に跳ね上がったように小さな鯉をくくり付けたのが始まりと言われています(前項参照)。天に跳ね上がったのだから、いっそ龍のかたちにして「龍のぼり」にしていたらもう少し違った発展を遂げたかもしれません。町人の間から生まれたものですので、龍のかたちをしたものを揚げるのは憚られたのでしょう。

 

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