馬と虎 ~その二~
現代の馬師によるお節句用 飾馬
馬と言えば有名なのは山内一豊(やまのうちのかずとよ)の妻のお話です。一豊は愛知県岩倉付近の出身の方です。信長が馬揃えのために良い馬を集めていることを聞きつけた馬商人が、東国一といって連れてきた馬があまりの値の高さに誰も買い手がつきません。それを聞いた一豊の妻が持参金をはたいてその馬を買い求めました。それを聞いた信長が「信長の家臣ならば買ってくれるだろうと持ってきた馬を、浪人の身でありながらよくぞ買ってくれた。織田家も恥をかかなくて済んだ」とほめたたえたというお話です。馬の名前を「鏡栗毛」といいます。きっと鏡のようにぴかぴかの栗毛馬だったのでしょう。当時、東国の馬の産地は、甲州、上州、奥州で、甲斐の武田の騎馬隊は有名です。
もう一つ、忘れてならないのは曲垣平九郎(まがきへいくろう)の愛宕山(あたごやま)の出世階段のお話です。将軍家光が増上寺参詣の帰り道、愛宕山の上に咲く梅に気付き、「誰か馬であの梅を採ってくる者はおらぬか」というと、曲垣平九郎という若者が「拙者が」と急な石段を馬で登って取ってきます。家光は「日本一の馬術の名人よ!」と褒めたたえたということです。今でもその石段はありますが、とんでもない石段です。お話は作り話ではないかと疑われていましたが、その後、明治、大正、昭和と三人の馬術名人が実際に上り下りし、おそらくその話は実話ではないかとされています。新橋・虎ノ門森タワーの近くにあり、今も「出世の石段」と呼ばれています。
このように、立派な馬を持つこと、馬を乗りこなすことは武士の面目のひとつでした。
香川県や愛媛県の一部では、いまも八月一日に「八朔(はっさく)」、「馬節句」といって、もち米で作った馬を贈る風習があります。飾りをつけ後ろ足で立つ大きな飾り馬で、業者もいるのですが自分たちで作る方もいらっしゃいます。馬を飾るのは、この曲垣平九郎は讃岐高松藩の家臣でしたので、その影響もあるのかもしれません。こうした行事は大切にされたいですね。
節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ
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