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連載 五月人形の重箱のスミ 56

端午の節句の主役「神功皇后」と、「八幡」 ~その2~

 

 さて、神功皇后の子、応神天皇はこうして七十歳になって即位するのですが、世間で言われる「八幡様」は多くの場合この応神天皇のことを指しています。では、八幡とはなんのことでしょうか。

 一説にはわが国土着のもっとも古い信仰神といわれています。大分県宇佐神宮は全国に四万数千社あるといわれる八幡社の総元で、神功皇后が三韓征伐のときに八流(やながれ)の幡(ばん・はた)を立てたことや、応神天皇誕生の時に屋根の上に八流の幡がひるがえったことなどから八幡(やはた)と呼ばれるようになったと言われています。平安時代になって神仏習合の習いが広まり、仏教式に「はちまん」と呼ばれるようになりました。

 仏教式に、というのは、仏教とともに漢字が大陸からもたらされるまで、日本には文字がありませんでした。当初は仏教は学問としての面もあり、それこそ命がけで中国に渡った学僧や優秀な政権中枢の子息たちが仏教とともに文字を学び、日本語にとりいれていった歴史があるからです。

 多くの八幡社では、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、比売神(ひめがみ)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)らの内の三柱が御祭神となっています。平安時代以降は、清和源氏、桓武平氏等の武士の尊崇を集め武士の守り神として多くの八幡社が作られました。八幡太郎義家などの名前にもつけられているように源氏系ではその後も家康に至るまで守護神とされてきました。頭の頂に神が宿るよう、兜のてっぺんの穴は「八幡座(はちまんざ)」と名付けられています。

 よく「若宮八幡」とか「若宮神社」という神社がありますが、若宮八幡の場合には応神天皇の御子・仁徳天皇のことを指し、一般の若宮神社の場合は応神天皇に限らずそれぞれの御祭神のお子様をお祭りしてあります。名古屋の若宮八幡社の御祭神は仁徳天皇、応神天皇、武内宿禰の三柱とのことです。前に述べたように、ここの山車は神功皇后です。

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 重箱のスミ 55 ~端午の節句~

端午の節句の主役「神功皇后」と、「八幡」 ~その①~

神功皇后。中央のひげのおじいさんは武内宿禰、抱いている赤ちゃんが十五代・応神天皇です。左の人はただの旗持ち。旗と書きましたが、これが「幡(ばん)」です。

 

江戸時代から戦後にかけてもっとも人気のあった節句人形は神功皇后でした。鎧をつけ、はちまきをしめ長刀(なぎなた)を手にしたりりしい姿で、多くの場合赤ん坊を抱いたひげのおじいさんと一緒にいます。白馬に乗っていることもあります。ひげのおじいさんは八百歳まで生きていたといわれる武内宿禰(たけのうちのすくね)で、抱いている赤ちゃんが皇后のお子様の応神天皇です。

神功皇后は大正十五年(昭和元年)に皇統譜が定められるまでは第十五代の天皇に数える歴史書もありましたが、さまざまな事情から皇統から外されてしまいました。そう、皇統は時代によって変化しているのです。現在、皇統と呼ばれているものは昭和元年に定められたものなのです。また、南北朝時代の北朝の天皇もいまは皇統譜から外されていますので、現在の百二十六代令和天皇も違う代数にする学者もいます。

妊娠中の身で三韓征伐に出かけたことが有名ですが、夫の仲哀(ちゅうあい)天皇は皇后が出かけるときに亡くなってしまいます。そのため、子の応神天皇は胎内にあるときから天皇になることが運命づけられ胎中(たいちゅう)天皇とも呼ばれました。帰ってきた神功皇后は応神天皇を無事出産しますが、践祚(せんそ:皇位につく儀式)することなくそのまま約七十年間実質的に皇后が天皇の役目を果たしました。つまり、応神天皇が天皇になったのは七十歳を過ぎてからなのです。従って、昭和以降、わが国ではその約七十年間、天皇が存在しなかったことになってしまいました。

落語では神功皇后とならんで太閤秀吉も人気があったように言われていますが、主に関西を中心に人気が高かった秀吉に比べ、神功皇后は全国的に人気がありました。

神田祭でも神功皇后の山車が明治時代まではあったのですが、現在は千葉の諏訪講の祭に用いられているそうです。この他、全国の祭の山車に皇后の人形は飾られています。(近隣では、東区筒井町・天王祭の山車、中区・若宮神社の山車、桑名市・石取祭の祭車など)

もし、十五代天皇に数えられていれば初めての女性天皇として最近の皇室後継問題にも影響を与えたかもしれません。大正天皇の后、貞明皇后はこの神功皇后に深く心酔していたと伝えられています。また、四十五代聖武天皇の后、光明子すなわち光明皇后にも傾倒していたと言われています。これは、虚弱だったと伝えられる聖武天皇を支え続けた皇后の境遇に親近感を覚えたのでしょう。皇族以外ではじめて皇后になったのも光明皇后です。癩病患者のために千人風呂を作り、自ら患者の背中を流したと伝えられる皇族ボランティアの先駆者ともいえる方です。この聖武天皇と光明皇后の娘は四十六代孝謙天皇となり、さらに重祚(ちょうそ:二度天皇になること)して四十八代 称徳天皇にもなっています。ちなみに聖武天皇の先代、四十四代元正天皇は、皇后や皇太子妃ではなく独身で初めて天皇になった女性です。

この辺りの歴史を垣間見ると、現在の性別にからんだ天皇の後継問題は昔の方がかなり進んでいるような気がします。

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連載 重箱のスミ 54 ~端午の節句~

端午の節句

もうすぐひな祭り。これまで、お雛さまのお話で重箱のスミっこをほじくりまわしてきましたが、そろそろ端午の節句の重箱に移ろうかと思います。

端午の節句は、そもそも「端午」の意味からしてよくわかりません。飾るしつらえにしても、鎧兜や武者人形、鯉のぼりなどなにをどう飾って、なにをしたらいいのかよくわからない、という方が多いのが実情です。そんな方々に参考になるのかどうかわかりませんが、とりとめのないお話をほじくります。「端午の節句」という世界は、足を踏み入れたら抜け出せないような面白いアイテムがたくさん出てきます。どうぞお付き合いください。

 

 今では、端午の節句の飾りと言えば兜や鎧、あるいは鎧を着た子供の姿のお人形が一般的です。しかし、戦後まもなくまで、この子供の顔の大将人形というのはほとんどありませんでした。わずかに、京都で若殿姿の人形があるくらいでした。

 では、端午の節句に昔は何を飾っていたかというと、鎧兜は昔からありましたがその他には神功皇后や神武天皇、鍾馗(しょうき)、ヒゲをはやした大人の姿の大将人形、それに桃太郎や金太郎、一寸法師、浦島太郎などの人形でした。

 落語の「人形買い」では、八つぁん熊さんが仲間の端午の節句のお祝いに人形を買いに行き、神功皇后と太閤の人形で迷うシーンあります。朝鮮征伐や、八幡(はちまん)様と崇められる応神天皇の母親「神功皇后(じんぐうこうごう)」と、出世物語の最高峰の人物「太閤秀吉」とで迷うのですが、神功皇后の方が代々続いていることからいいのではないかと神功皇后になります。そのあとのどたばたは庶民的でとても楽しいお話です。

 鎧兜のことを甲冑(かっちゅう)ともいいますが、甲が鎧の意味で、冑は兜です。「甲」を「かぶと」と読むこともあって間違いやすい言葉です。亀の甲羅を思えば甲が鎧であることはわかりやすいと思います。昔、マジンガーZというアニメの主人公は「兜甲児」という名前で、まさに端午の節句にふさわしいような名前でした。

 

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雛人形 いつ買う?

良いお雛さまには「流行(はやり)」はありません。

お雛さまの販売時期も終盤となりました。人形店によっては早々と五月人形の売り出しをしているところもあります。

当店では、3月3日まではお雛さまをお求めいただくことができます。それは、今日、お生まれになるお子様もいらっしゃるし、極端なことを言えば3月2日にお誕生のお子様もいて、どちらのお子様にとっても今度の3月3日は「初節句」であり、そうしたお子様のためのお雛さまをおあつらえするのが私たちの「努め」だからです。また、雪深い地方では「旧暦」でひな祭りを催すところもたくさんあって、そうした方々にとっては「そろそろお雛さまを買いに行こうか・・」というのが、この2月の中下旬なのです。どうぞお出かけください。

男のお子様のお節句「端午の節句」はまだ3か月近く先です。一般の五月人形メーカーの品と違って、いわゆる一点物を中心に製作している職人からは、いま、やっと新しく出来上がったものが到着しつつあります。2月末にはほとんど揃いますので、お雛さまがすんでからゆっくりとお出かけください。

2月22日から五月人形を飾り始めます。

雛人形の 重箱のスミ53

雛人形とお住まい

今回はこれまでの連載「重箱のスミ」とはちょっと趣が違い、重箱そのもののお話。

今回で、とりあえず「雛人形の重箱のスミ」は一休み、次回から「五月人形の 重箱のスミ」を始めます。引き続きお楽しみください。

 以前、すこしかかわりのある大手マンションメーカーの営業の方に「畳のあるマンションが少ないので、雛人形などを飾っていただく場所がないんですよ」というお話をしたら、「最近は洋風のお部屋でないと売れませんから」と言われました。洋風?たしかに最近のマンションは和風ではないけれど、彼の言う洋風とはどんなものだろうか考えてみました。テレビで新築の戸建てのお家の紹介をしている番組があります。それを見ていても、マンションメーカーの言う「洋風」の部屋と同じ匂いがします。出演しているタレントの方が「ホテルみたいですね」と、たぶん、ほめ言葉として言っていました。そう、それは洋風ではなく「ホテル風」なのです。ホテルはいろいろな民族、文化、宗教の方々が利用しますのでなるべく偏りのない、装飾をなるべく削ぎ落した無国籍な内装にします。どうも、そのことを「洋風」とマンションメーカーはおっしゃっていて、また、若い方たちの新築の戸建ても同じような民族、文化、宗教色のない「ホテルのような」内装が好まれるのだと思います。

 文化は家(建物)と密接な関係があります。私たちの仕事は節句にかかわるしつらえをお誂えすることです。それは五節句(正月、雛祭り、端午、七夕、重陽)だけでなく、お盆や地域のお祭りをはじめとしたあらゆる伝統的な行事に関わります。そのしつらえのすべてが、和の建築様式を根本にしています。

 毎年お正月に、近くの神社へ早朝から「火縄(京都ではおけら火と呼ばれるもの)」をもらいに来る方たちのために御神火の授与のご奉仕にまいります。しかし、最近は「電磁調理器だから火をもらってもしょうがない」という方がふえてきました。火縄(おけら火)が意味をなくし、行事がなくなるのも遠い将来ではないでしょう。床の間や掛軸を知らない方もふえてきて、それが良いことなのかどうかも私にはわかりません。民族の文化を頑なに守ろうとすると不要ないさかいが起こることもあります。でも、ひな祭りなどは世界的に見ても実にゆるやかで、平和であってこその風習であり、その価値や評価は海外生活のある方は実感している方も多いでしょう。海外ではこの風習は羨望の的であり時にはニュースにもなります。

 ひな祭り、端午の節句、お盆、お正月、さらには七夕、クリスマスまで含めて日本には多くの季節のイベントがあり、それぞれのしつらえがあります(どこの国にもありますが)。「豊かな生活」には、そうしたしつらえは欠かすことができません。そのしつらえの土台となる「家(建物)」が、豊かさの基となる「文化」から離れつつあるように感じるのは思い過ごしでしょうか。

※「しつらえ」は、「設え」と書きますが、例えばお正月に門松を建てたり、クリスマスにクリスマスツリー(モミの木)を飾ったりすることを指します。それぞれの行事によってある程度「様式」が決まっています。クリスマスに松の木を飾ることはありません。それを見ればだれでも何の行事か分かるのが「しつらえ」です。

お雛様の極 徳川美術館

いよいよ2月1日から徳川美術館で徳川家の雛祭り展が始まります。お雛さま、それを彩る雛道具の数々、それも超のつく一級品をご覧ください。

今年も、そのロビーに現代のお雛さまを飾り付けしてきました。大きなお雛さまに、貝合わせや犬筥、酒宴道具など、こちらも、今、製作可能なお雛さまの最高峰のひとつと言えるかもしれません。だんだんとこうした雛飾りも作れなくなってきます。

貝合わせや犬筥など、さまざまな雛道具をてんこもりに飾っても違和感がないのはなぜだろうと考えます。それは、おそらく、赤いもうせんのひな段、金(でなくてもいいけど)の屏風、ぼんぼりといっただれでもお雛さまといえば思い浮かぶ「様式」が基本にあるからだと思います。こうした様式にそったお雛さまであれば、ここにお子様のぬいぐるみや大事なおもちゃを一緒に飾ったって違和感はありません。基本的な様式があれば、たちまちそこは「雛祭り」の場になります。日常とは違う、単なるベビー用品ではない、様式を踏まえたお雛さまがあって初めて成り立つハレの日の舞台がそこに出現するのです。  ・・・・このお雛さまは、ご家庭に飾っていただくには大きすぎますけど・・・

雛人形のお守り 犬筥入荷しました!

犬筥はもともと赤ちゃんのお守りなのですが、お雛さまのお守りのようによく飾られます。

そんな犬筥が、遅くなりましたが京都からいちどきにできあがってきました。

新作もあり、可愛い!

百数十種のお雛さまの中からお気に入りのお顔・衣裳のお人形を選んでいただき、お客様ごとに屏風やぼんぼりなどの雛道具を人形に合わせてお揃えいただくという楽しい作業をお手伝いします。その雛道具のひとつがこの犬筥です。ほかにも貝合せや様々な種類の桜橘または紅梅白梅、ふくら雀などの御殿玩具等々、伝統的で可愛らしい雛道具をお揃えしています。

老舗専門店でなければ見られない雛飾りをどうぞご覧ください。

只今無休営業中です。駐車場有り。

 

 

雛人形の  重箱のスミ 52

貝合わせ

 

同心円状に並べます。多い方が楽しい・・

一組の貝合わせを飾るときは左右違う絵にします

 

昔から、というのは平安時代よりももっと前から、という意味ですが、浜辺にはたくさんのきれいな貝殻がころがっていて、女の子たちにはとても魅力的なものだったでしょう。そんな貝殻を集めて「あたしの貝殻の方がきれいよ」といって競い合ったのが貝合せです。貝殻の内側に絵を描くようになる前には、貝殻そのものの美しさを競ったものでした。「合わせ」とは、一組の貝殻を合わせることではなく、美しさや優劣を「競う」という意味だったのです。他にも三月三日に行われる「鶏(とり)合わせ」や端午の節句に行われる「菖蒲の根合わせ」など、たくさんの「合わせ」の例があります。菖蒲の根合わせについては、葉や花ではなく「根っこ」の立派さを競うという、ちょっと現代とは違う感覚のものでした。一月には「若松の根合わせ」というのもありました。

貝合わせは、似たような模様のハマグリだけを使うことでゲームとしての楽しさが増し、内側に絵を描くことで答え合わせができるようになりました。平安時代には、三百六十個くらいの数で行われていたといわれますが、実際には二百~五百くらいまであったようです。貝合わせを行う前には日柄を占い、当日は数名の神官が審判(レフェリー)となって行われていました。ゲームというより、神事に近いものだったのかもしれません

貝をまずばらばらにし、並べる方(地貝)と、一つずつ出していく方(出貝)に分けます。地貝を画像のようにすべてうつぶせに同心円状に並べ、その中央に片方の出貝をひとつうつぶせに出し、そのお相手の貝を外側の模様で探します。内側の絵が合っていれば正解です。うつぶせに貝を並べるので「貝覆(おお)い」とも呼ばれます。

当店では内側に本金箔を押して絵を描いていますが、箔ではなく金泥を地に塗ったり、あるいは貝殻に直に絵を描いたものもあります。

この貝合せを行うのに必要なのが「貝桶」です。前にも「行器と貝桶」でご説明しました。数百という数ですので保管するとき底が抜けないよう二重になっており、がっちりした脚がついています。

貝合わせは、他の貝とは決して合わさらないことから夫婦和合の象徴とされ、貝桶とともに嫁入り道具の最も大切なものとされました。しかし、たいへん高価なもので公家や大名家でないと持つことができなかったため、骨董品として世に出てくることは滅多にありません。徳川美術館などには多くの貝桶貝合わせが収蔵されていますが、なかなかじかに見たり手に触れることが難しいもののひとつです。

「その手は桑名の焼き蛤」と言われるように、桑名はハマグリの名産地なのですが、現在は絶滅危惧種Ⅱ類に指定され保護されています。

縄文時代の貝塚などからもハマグリがたくさん出てきます。アサリやシジミもありますが、ハマグリが最も多いようです。これは、やっぱり「おいしい」からでしょう。大きくて食べやすいし、なによりおいしい!ハマグリのおいしさは貝の中でも別格です。そして、貝殻がきれい!他の貝とは決して合わないと縁起物の理由としてあげられますが、シジミでもアサリでも他の貝とは合いません。やはり、「おいしい」のと「きれい」が、貝合わせになり、結婚式などの縁起物としてお吸い物になったりする一番の理由だと思います。ちなみにハマグリの旬はちょうどひな祭りの頃です。

きれいと書きましたが、とれたばかりのハマグリの表面は薄い皮膜でおおわれていて、これをペーパーで削り落としたり、薬品で溶かしたりするときれいな貝殻があらわれます。けっこう、手間がかかります。

 

 

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雛人形の 重箱のスミ 51

謹賀新年

お正月なので縁起よく、末広がりの話題です。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

お雛さまは縁起のかたまりといっても良いくらい、すみからすみまで気配りがされています。ですから、生半可な思い付きで様式を変えたりすると、見る人が見たときとても妙なことになる場合があります。さらに、不思議と「様式」に則(のっと)ったお雛さまというのは流行(はやりすたり)に左右されず、とても美しいものです。

そんなお雛さまの世界にいざなうのは、重箱のスミをほじくるような楽しいお話の数々です。どうぞお楽しみください。

 

雛人形の檜扇

実際の檜扇の飾り花

 

女雛が持っているきれいな扇を檜扇(ひおうぎ)といいます。名前の通りヒノキでできています。

まだ紙のない時代、長い祝詞(のりと)などを書き記すのに一枚の木簡(笏)では足りず、何枚かに書いてその一端を糸や金具で留めたのが始まりとされています。板の数は八の倍数とされ、女性の場合は八×五の四十枚、ここから偶数を嫌って一枚減らし三十九枚とされています。この板のことを橋と呼びます(お菓子の八つ橋と関係があるんだかないんだか・・)。雛人形の持ち物としての檜扇は、そんなにたくさんの枚数では作れないので十数橋になっていて、松竹梅、鶴亀などの縁起の良い絵柄が描かれています。

この両端に造花がつけられ、そこから長い色糸が垂らされています。この糸は緑、紅、白、黄、紫、淡紅の六色で、実際にはこの糸で閉じた檜扇をくるくる巻いて手に持ちます。で、そこについている造花ですが、雛人形には松、梅、橘がつけられます。良い雛人形には扇そのものも手の込んだ絵が描かれ、造花、糸も美しい絹糸で作られます。松、梅、橘は高倉流、山科流では松と梅だけといわれますが、いずれにしても松、梅、橘以外の造花は付けられないようです。

松、梅ときたら竹と行きたいところです。ここに橘がつけられるようになったのは、橘家と関係のある九条家が有職故実の流派であることが関係しているのかもしれません。

小さな雛人形の道具ですが、緑の松などが描かれていることが多く、これを持たせることによって紅や朱色系の多い女雛の装束にワンポイント補色が入り、全体を引き締める効果もある重要なパーツのひとつです。

 

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お雛さまの 重箱のスミ㊿

犬筥(いぬばこ)と唐獅子

とうとう、このシリーズも50回を迎えました。1回目は5月です。

最初のころは短かったのに、だんだん興が乗ってきて長文になってしまい申し訳ありません。調子に乗って、まだまだ続きます。

 

犬筥

 

犬張子

 

古いお雛さまの両脇に犬筥が置かれていることがあります。枕のようなかたちの人のような貌(かお)をした犬で、上下に分かれて中にものを入れることができるようになっています。一般的なのは二十センチ前後で、大きなものは一メートルを超すものもあり、ほとんどが張子(紙製)で、金箔を押したり美しい吉祥文が描かれています。

現代でも作られていて、多くは素焼きに彩色されたものになっています。

犬は縄文時代の遺跡からも出土されているように、はるか古代から人間の友達です。人によくなつき、知らない者が来ると警戒して吠え、危険があれば主人を守って戦ったりもします。また、犬はお産が軽く育てやすいこともあって、「厄除け」「安産」の象徴となったと考えられています。

犬筥は「御伽犬(おとぎいぬ)」とも呼ばれ、嫁入り道具のひとつで夫婦の寝室にティッシュ箱として置かれたとも言われていますが、よくわかりません。几帳(きちょう)が風でひらひらしないように重石として使われたものが犬筥に発展したとも言われています。(「几帳の獅子も恐ろしげに・・・」出典の記憶不鮮明)

ティッシュ箱はともかくとして、犬筥が「箱」であるもっともらしい理由は、箱の中に赤ちゃんの爪とか髪の一部を入れ、近づいてくる「魔」を赤ちゃんから逸らすためというものです。お守りを入れることもあります。であれば、女の子だけでなく男の子でも飾られていいように思います。かつて、上皇后さまはお孫さまたち~悠仁さまにも犬筥を贈られたそうです。民主党政権時代に、菅総理の伸子夫人がときどき犬筥のブローチをつけていたのも思い出します。厄除けだったのでしょうか。お蔭で原発も大爆発を免れたのかもしれません。

文献にもあまり出てこないので断定はできないのですが、犬筥や几帳の重石(おもし)としての獅子は奈良時代頃から存在したと考えられています。重石の獅子が犬筥に発展したという経緯はわかりませんが、「几帳の獅子も恐ろしげに」とあるように、ちょっと怖いお顔だったので可愛らしいかたちにだれかが創作したのでしょう。この犬筥が後にお宮参りの「犬張子」になり、また一方、神社の「狛犬(こまいぬ)」に発展したということです。

「獅子」と「狛犬」は同じものなのか?この点については全国の狛犬を調べている方たちがいらっしゃるのでそちらにお任せするとして、現実のかたちとしては若干違います。いずれにしてもどちらも想像上の生物なので、言葉上のことにだけ触れておきます。

獅子とはライオンのことです。ここでいうのは獅子は獅子でも「唐獅子」のことです。健さんの背中の唐獅子牡丹の獅子です。歌舞伎の連獅子や、能の石橋でも出てきて縁起の良い動物のようです。唐獅子というくらいなので中国のライオンなのですが、中国にライオンはいません。しかし、平安時代の始め、慈覚大師(円仁。伝教大師最澄とともに初めて大師号を賜った)が唐へ渡った時、道中記に一行が獅子に出くわしたことが書かれています。これは、当時、インドへ仏教修行のため多くの中国僧が行き来していたので、その人がたちがインドライオンを連れてきたのではないでしょうか。想像上の動物とはいうものの実際にライオンを見たことのある中国人は何人もいて、それを描いたものが伝わったものではないかと思います。

もとい。こうして犬筥は赤ちゃんのお守りであるばかりでなく、今ではお雛さまのお守りのように飾られるようになりました。

※犬筥は向かって右が雄、左が雌とされています。細かいことをいうと、雌雄の違いはその首輪(ヒモ)にあります。オスは男結び、メスは女結びで結ばれます。とは云うものの、その違いを判別するのは難しく、古い犬筥を拝見しても私にはよくわかりません(笑)。

 

 

 

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