弓と太刀 ~その二~
弓矢
籐巻竹製弓 天然矢羽根 尖根の矢尻
刀とともに、弓は武将の必須科目のひとつです。平家物語や源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)に出てくる那須与一(なすのよいち)や義経の弓流しの話は有名です。与一は屋島の戦いで平家の舟に掲げられた扇の的をみごと射貫き、義経は同じ戦いの場で海に落としてしまった弓を危険を承知で拾いに行きます。これは義経は非力だったので源氏の大将の弓がこんなに弱いものと笑われるのが名折れだからという話です。また、龍頭のところで出てきた藤原秀郷こと俵藤太も弓の名手です。ムカデの頭の同じ一点に三度過たずに矢を当てたのですから。この秀郷の弓は五人引きという剛弓といわれていますが、歴史上(?)もう一人五人引きの弓の名手がいて、それが源為朝(みなもとのためとも=頼朝の叔父)です。父・為義とともに崇徳上皇方につき、兄・義朝の後白河天皇方と保元の乱で戦います。ニメートルを超す大男で力も強く、一本の矢で鎧を着た二人を串刺しにしたり、大きな船を沈没させたりしました。
弓矢と言えば、三十三間堂の通し矢が有名です。ここで有名なのは星野勘左衛門茂則です。江戸時代初期、以前に自ら打ち立てた記録六千六百六十六本が塗り替えられたため再度挑戦し、八千本の大記録を打ち立てます。この記録も、将来だれかに塗り替えられるためにキリのいいところでやめたと伝えられています。実話みたいです。西尾の出身で代々尾張藩士、お墓は名古屋の平和公園内にあります。
太刀と同じように、節句で飾る弓矢には儀礼用の様式が必要です。弓と矢、それに弦巻(つるまき=弓の弦を巻いておく円いもの)が組み合わせられます。この中で大切なのは「鏃(やじり)」です。魔障はきらりと光る鏃を恐れると言われています。そして鳴弦(めいげん、つるうち)という儀式があるように、弦の響く音も恐れます。これらが組み合わさったものがお節句には飾られます。
余談。義経が海に落とした弓を危険を顧みず拾おうとした話ですが、子供のころなんでそれが義経の弓だとわかるんだろう?と不思議でした。大きないくさのあとには、弓は何本も落ちていたはずです。それは、弓に名前が書いてあるからです。戦地で大勢の武士が集まったとき、身長や力量に応じて弓もいろいろあったことでしょう。その中で、だれの弓か分かるように名前が書いてあったわけです。高価な矢にも名前が書かれていたとあります。
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