連載 五月人形の重箱のスミ 96

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弓と矢 ~その四~

  弓矢というか、銃とミサイル

  以前、「現代の戦争では兵士が銃で撃ちあうなんてことはなく、離れたところからミサイルで敵の軍事基地を的確に攻撃するので安全だ」というわけのわからないことを言った総理大臣がいました。そんな漫画みたいなことがあるはずないことは、今も世界中で起きている現実の戦争が証明しています。仮にそういうことができたとしても、破壊したところに最初に行くのは前線の兵士です。昔も今も、彼らは破壊された建物の陰から狙い撃ちをされるのを覚悟していかねばなりません。

 かつて山口瞳は戦争について、「私は銃を持った敵兵(それは相手国の八百屋の息子)を、銃で殺すのはいやだ。私は棒を持って戦い、撃たれて殺されるならしょうがない」というようなことを言っていました。戦争が起これば、前線で殺し合うのは相手国の八百屋の息子と自国の魚屋の息子です。戦争している間だけかれらは軍人と呼ばれ、死んだら英霊と呼ばれます。相手の国の八百屋の息子たちを殺したい人たちは、自国の魚屋の息子たちに、弾の飛んでこないところから命令を出します。魚屋の息子の代わりはいくらでもいるが、自分の代わりはいないと思っているからです。

 我が国の中世、戦国時代の戦は武士(軍人)だけで行われ、あらかじめ戦う場所も決められ、両者に圧倒的な戦力の差があれば戦わずに降伏するという、いわば理にかなった戦いでした。降伏したからと言って、当時、世界中でおきていた戦争のように一族郎党皆殺しになるということはなかったので、安心して(?)降伏できたのです。というようなことは一面的な見方なのですが、そうした理性を働かせる民主的(?)な合議制があったことは事実です。

 究極、戦争を回避するためには山口くらいの覚悟が必要なのかもしれません。殺される前に殺すという、勇敢でその場限りの大義で鼓舞される熱気は、それ以上の正義と覚悟を持った指導者の「わが国の息子たちはひとりも死なせない」という強固な信念のもとに否定されなければなりません。いま、世界中で起きている戦争を見れば、結局、実際に殺し合っているのは、一握りの政治家によって軍人と名付けられた八百屋の息子と魚屋の息子たちなのです。

 

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これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

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