ちまきとかしわ餅 ~その二~
かしわ餅

おいしそうですが、食べられません
柏餅が生まれたのは江戸時代の後期です。昭和の初めころまでは関東地方特有のお餅でした。それは、関西地方では当時カシワの葉がなかなか手に入らず、中国や韓国から輸入されるようになって初めて全国的に広まったからだそうです。それまで、カシワの葉が手に入りにくい地域ではサルトリイバラの葉っぱが使わることがあり、それはあのサンキラのことなのです。有名な大口屋さんの麩饅頭 山喜羅(さんきら)は昭和四十八年の発売だそうですが、柏餅がヒントになったのかもしれません(あくまで想像です)。
カシワは、新芽が育つまで冬でも葉っぱが落ちずにいることから「家系が途切れない、子孫繁栄」ということで縁起物として広まったそうです。山喜羅も柏餅も大好きです。
節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ
これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。
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ちまきとかしわ餅 ~その一~
ちまき

ちまき 食べられません
ちまきは茅巻、粽と書いて、茅の葉で巻いたお菓子もしくはお餅のことです。粽は中国語で、後漢の風俗通義(二世紀末ころ)に初出の文字らしいです。
茅の葉で巻くと言いましたが、茅(ち、かや)とはチガヤをはじめススキ、ヨシ、オギ、カリヤス、マコモなどの総称です。ススキの姿が一番想像しやすいでしょう。みな似た姿をしています。かやぶき屋根に使うカヤもこれらの茎を用います。
よく、ちまきのいわれについては中国・楚の屈原の故事が引き合いに出されます。紀元前三百年ほどの実在の人物ですが、王への諫言が聞き入れられず泪羅(べきら)の淵に身を投じた政治家・詩人のことです。それを憐れんだ付近の人々が遺体が魚に食われないようにとちまきを滝つぼに投げ込んで供養したというお話です。しかも、その日が五月五日なので端午の節句にちまきを供えるようになったというお話です。粽という文字が初めて書物に載せられたのが二世紀末ごろですので、屈原の故事とは五百年ほどの開きがあります。そもそもの伝承では滝つぼに投げ込んだのは「お餅」ということなので、それがちまきになったのは相当時代が下ってからのことでしょう。たまたま事件が五月五日だったので、端午の節句の始まりのように書かれることがありますが、端午の節句はそれよりずっと前、紀元前十一世紀の周礼にすでにその言葉があるので端午の節句の始まりとは考えにくいです。物語として端午の節句とむすびつけられたのでしょう。
ちまきは細長い円錐型が多いのですが、地方によっては三角おむすびのような形のところもあります。民俗学の吉野裕子はこの円錐型のちまきは蛇をかたどったもので、厄除けや再生をあらわしていると断じています。日本や中国でも端午の節句の象徴のように扱われているたべものです。五月五日はもちろん旧暦でのこと、今の暦で言えば六月の初~中旬にあたります。初夏のむしむしした暑さと、色んな虫たちが出てくる季節です。餅菓子や混ぜご飯はすぐに悪くなったり、ハエなどもたかります。それを防ぐのに、防腐効果のある茅の葉で包むというのは必然的な知恵だったのだろうと思います。このことから、茅などには厄除けのようなちからがあると思われたのかどうか、全国の神社では夏越の祓え(なごしのはらえ)といって、この茅を編んだ大きな輪をくぐるという行事が今でも行われます。雑草といわれますが、なかなか役に立つ雑草です。
茅の仲間にマコモもあります。これはお盆のときにお仏壇にお供えをするとき、台にかけるムシロのようなものです。神事にも用いられるのですが、数十年前までは、端午の節句飾りの敷物にもよく用いられました。しつらえに清浄感が加わります。
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☆百回記念☆
昨年の五月からこの「重箱のスミ」を書き始め、ついに百回の節目を迎えました。
一年間で成し遂げたかったのですが、少し遅れてしまいました。毎回、目を通してくださる方がいらっしゃるのかどうかわかりませんが、各回かなりのアクセス数があり驚くとともに感謝にたえません。よく、こんな重箱のスミをつつくような、どうでもいいことをお読みいただいていると、ほんとうにありがたい限りです。
お礼にと言えば厚かましいのですが、先着5名様に拙著「いま、伝えたい節句のお話」を進呈したいと思います。ご希望の方はこのホームページの最後の方にある「お問合せ」からお申込み下さい。「本、希望」とお書きの上、お名前、ご住所、お電話番号をご記入ください。本の発送をもって先着5名様の発表に換えさせていただきます。(ご住所等のデータは発送とともに破棄し、他のことに使用致しません。)
この「重箱のスミ」のブログは、この本を作るにあたり載せきれなかった四方山話を書き連ねたもので、いわば基になっているものです。
鯉のぼり ~その四~
座敷幟

幟や小旗にはご両家の家紋が入ります。
台には木彫りの彫刻が施されています。
座敷幟(ざしきのぼり)、両立幟(りょうだてのぼり)というものもありました。今ではほとんど見ることがなくなりました。
幟とは、旗の縦長のもので、それこそ天に向かってのぼる旗です。神社の境内や、大相撲の会場に並んでいます。鯉のぼりは、この先に付けられた小さな鯉が始まりだったのですが、この「幟」が端午の節句では重要な主役でした。武者の絵が描かれたものは「武者絵幟(むしゃえのぼり)」とも呼ばれ、神功皇后や豊臣秀吉、武田信玄と上杉謙信など色々な武者絵が描かれていました。今では時代が違うので男の子の誕生だからと言って女の子と差別するような扱いはできませんが、かつては男児の誕生は「家(うち)の跡取り」の誕生として喜ばれ、近隣にそれを知らせる意味でも大きな幟旗が建てられたのです。しかし、外に建てる幟はたいへんなので、室内のお節句飾りの鎧や人形の後ろや脇に飾れるようにしたものが、座敷幟や両立幟です。節句飾りに添えると一気に豪勢なものになります。
外に建てるのぼり類は、数十年前までは「大のぼり(武者絵のぼり)」、「鯉のぼり」、「鍾馗旗」の三本がセットになっていました。中には、ご親戚やお知り合いから「大のぼり」や「鯉のぼり」がいくつも贈られ、何本も建っているおたくもありました。むしろ、家の中に飾る鎧や武者人形よりものぼり類の方が端午の節句の中心的な存在だった感さえあります。
こうした意味合いが今では薄れ鯉のぼりだけがなんとか残ったのですが、ご両親の鯉にお子様たちの鯉のような、家族を象徴するものとして今後も続いて欲しい文化だと思います。
ちなみに、鯉は、鯉→龍と出世魚の最高のものとされています。(‘Д’)
ツバス→ハマチ→ブリ、 セイゴ→スズキ、 など出世魚にもいろいろあるようですが、水中の魚類から空を飛ぶ最強生物にまで出世しちゃうのは鯉をおいて他にありません。
2013年、英国のチャールズ王太子(現国王)にジョージ王子がお生まれになったとき、日本鯉のぼり協会が大きなポリエステル製の鯉のぼりを贈りました。しかし、折角なら、前項にあるような木綿の手染めの鯉のぼりを贈ってほしかったなと少し残念です。
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鯉のぼり ~その三~
鯉のぼりとタモリさん

大空を泳ぐ鯉のぼり
名古屋節句飾りとして国の伝統的工芸品に認定されている
手染め、木綿の鯉のぼりです。
尾張、三河はこうした手染めの鯉のぼりの産地です。
鯉のぼりは「さげる」のではなく「あげる}
少し前から、地方の自治体で流れる川の両岸にロープを渡してたくさんの鯉のぼりを「ぶらさげる」イベントが流行しています。それはそれで壮観と言えなくもないのですが、前項の橋本さんの言葉にもあるように、鯉のぼりは天に向かって跳ね上がるような勢いで「龍になる寸前の姿」を表したものであって、川面にぶらさげるものではなかったはずです。鯉は水の中を泳ぐのですが、鯉のぼりは先の滝廉太郎の「鯉幟」にあるように真っ青な大空、流れる雲を大海に見立てて泳ぐものなのです(海に鯉はいませんが)。
こうしたイベントに触れるたび、なんだか釈然としない思いが残ります。何百匹もの鯉のぼりがぶらさがるさまは壮観ではありますが、小さくてもお父さんが自分のためだけに建ててくれた鯉のぼりの方が、何十倍も心躍る喜びとなることは言うまでもありません。
かつて、タモリさんが徹子の部屋かなにかで言っていた言葉。「ぼくは姉ばかりのきょうだいの末っ子の男子で、親にかわいがられた記憶があまりない。けれど、何年か前、古いアルバムを見てたら、我が家に小さな鯉のぼりが建てられている写真があった。思い出した。あれは親父がぼくのために建ててくれた鯉のぼりだ。そう思ったらちょっと泣けました」。 他人のための鯉のぼりを見ても、この気持ちはおこりません。
ご家族のお喜びがあふれているような五月の青空にひるがえる鯉のぼりは、百閒先生ではありませんが、ご家族はもちろん、お子様自身の心からの喜びとして、いくつになっても記憶に残り続けます。
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鯉のぼり ~その二~
上皇様の初幟(はつのぼり)

橋本弥喜智商店さんの鯉のぼり
眼は下を見下ろすのです
内田百閒(ひゃっけん)の「東海道刈谷驛(かりやえき)」という本の中に、皇居にひるがえる鯉のぼりを見た話が出てきます。今の上皇様(平成天皇)の初節句のときです。鯉のぼりを建てるにあたって、八王子から大きな長い竹竿が運び込まれたことも当時話題になったようで、その竿につけられた吹流しと鯉のぼりが五月の青空に翩翻(へんぽん)とひるがえる様子が描かれています。上皇様はお姉さま(内親王)が四人続いたあとのお誕生だったので、皇室はもとより国民の祝意もことのほか大きかったようです。
「宮城(きゅうじょう)の右寄りの盛り上がった樹冠の上に大きな端午の鯉と吹流しが、南の方を頭として薫風に泳いでいるのが目についた。~中略~皇室のおよろこびがその初幟(はつのぼり)の鯉の姿に表はれているようであった。」
さしも偏屈な百閒さんも、たいそうお喜びだったようです。
この鯉のぼりが何匹だったかは描かれていません。たぶん、この時代ですと吹流しに黒鯉と赤鯉の三匹(旒)だったでしょう。まだナイロン鯉の登場する前ですのでもちろん木綿の鯉です。埼玉県加須市の橋本弥喜智商店さん(平成二十八年廃業)が、昭和八年に鯉のぼりを皇室に納めておられるのでその鯉のぼりかもしれません。「初幟」という題がついていますので、今の上皇様の昭和九年の初節句の様子です。お誕生日は昭和八年十二月二十三日なので、お誕生のお知らせを聞いてすぐさま年末に納められたことになります。
百閒が鯉のぼりをどこから見たのかはわかりませんが、相当大きな鯉のぼりであったにちがいありません。橋本さんに聞いておけばよかったと悔やまれます。たぶん、四間(七メートル二十)か五間(九メートル)くらいでしょうか。もっと大きかったかもしれません。吹流しは五色のものです。
橋本さんは鯉のぼりのことを「鯉が竜門の滝を登って龍になる寸前の姿を表さねばならない」と言っておられましたが、その通りの勢いのある鯉のぼりを作っておられました。ナイロン鯉と違ってただでさえ重みのある木綿の生地に絵具で直接、描いておられたのでちょっとくらいの風ではなびかない重厚感のある悠然たる鯉のぼりでした。
他の節句飾りと違って、鯉のぼりは民間から生まれたものです。江戸時代後期に、江戸の町民がしゃれっ気で鯉の滝登りの絵が描かれた大きな幟のてっぺんに、天に跳ね上がったように小さな鯉をくくり付けたのが始まりと言われています(前項参照)。天に跳ね上がったのだから、いっそ龍のかたちにして「龍のぼり」にしていたらもう少し違った発展を遂げたかもしれません。町人の間から生まれたものですので、龍のかたちをしたものを揚げるのは憚られたのでしょう。
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鯉のぼり ~その一~
鯉の吹流し

江戸時代末期、名古屋 本町通りの端午の節句のようす
鯉が幟や鍾馗旗に一匹ずつくくりつけられています
猿猴庵画「大にぎわい 城下町名古屋」より
「鯉のぼり」とわたしたちは当たり前のように呼び慣わし、昔からある言葉のように思っていますが、実はそんなに古い言葉ではないようです。昭和十七年発行の「大言海」には「こいのぼり」の語は載っていません。びっくりです。かわりに「こひのふきながし」として鯉のぼりのことが掲載されています。このころには現在の形に近い鯉のぼりは存在していましたので、「鯉のぼり」という言葉だけがまだ一般的ではなかったのでしょう。鯉のぼりがあったといっても、現在のナイロン製の鯉はまだありません。木綿や和紙でできた鯉のぼりです。
明治三十四年、滝廉太郎作曲、東くめ作詞の文部省唱歌「鯉幟」が私が確認できた最初の「こいのぼり」です。
「こひのぼり」
大きな黒い 親鯉に 小さな赤い 鯉の子が
いくつもついて 昇って行く 海の様な 大空に
という歌詞です。いまはあまり歌われないですね。有名な「いらかの波と雲の波~」の歌は、この少し後の大正二年に出されています。
歌では鯉のぼりという言葉が出てきているのに、辞書には載っていないという不思議な現象がおきています。歌によって新しい言葉が社会に普及していくということはよくあることのようです。
鯉のぼりの誕生は、江戸時代の後期に「鯉の滝登り」が描かれた大きなのぼり(幟)のてっぺんからポンと大空に飛び出したように鯉を一匹つけたのぼりが始まりであったようです。実際には「鯉の吹き流しの付いたのぼり」であったために、正確な言葉が要求される辞書では「鯉の吹き流し」としか掲載できなかったのでしょうか。江戸時代末期に活躍した安藤広重の絵に一匹の黒い鯉が空に翻(ひるがえ)る様子が描かれていますので、このころにはのぼりから独立して鯉だけを建てる現在の鯉のぼりの原型となるものが江戸にはあったものと考えられます。
明治になるとこの黒い鯉に親子のように赤い鯉が加えられます。前出の滝廉太郎の歌にあるような鯉のぼりですね。これに五色の吹流の付いた鯉のぼりのセットが売られるようになるのは昭和に入ってからです。このころまで鯉のぼりはほとんどが木綿製でした。(もしくは紙製)
そして、昭和四十二年、ナイロン製の鯉のぼりが発売され、鯉のぼりは爆発的に広がります。それまで木綿に色を付け川で糊を流すという生産性のあがらないやり方から、ナイロン裂地に印刷し、裁断してミシンで縫製するという方法になったのです。色や模様も一気に増え、黒と赤だけだった鯉に青や緑、オレンジなどが加わって現在のような鯉のぼりになりました。
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弓と矢 ~その四~
弓矢というか、銃とミサイル
以前、「現代の戦争では兵士が銃で撃ちあうなんてことはなく、離れたところからミサイルで敵の軍事基地を的確に攻撃するので安全だ」というわけのわからないことを言った総理大臣がいました。そんな漫画みたいなことがあるはずないことは、今も世界中で起きている現実の戦争が証明しています。仮にそういうことができたとしても、破壊したところに最初に行くのは前線の兵士です。昔も今も、彼らは破壊された建物の陰から狙い撃ちをされるのを覚悟していかねばなりません。
かつて山口瞳は戦争について、「私は銃を持った敵兵(それは相手国の八百屋の息子)を、銃で殺すのはいやだ。私は棒を持って戦い、撃たれて殺されるならしょうがない」というようなことを言っていました。戦争が起これば、前線で殺し合うのは相手国の八百屋の息子と自国の魚屋の息子です。戦争している間だけかれらは軍人と呼ばれ、死んだら英霊と呼ばれます。相手の国の八百屋の息子たちを殺したい人たちは、自国の魚屋の息子たちに、弾の飛んでこないところから命令を出します。魚屋の息子の代わりはいくらでもいるが、自分の代わりはいないと思っているからです。
我が国の中世、戦国時代の戦は武士(軍人)だけで行われ、あらかじめ戦う場所も決められ、両者に圧倒的な戦力の差があれば戦わずに降伏するという、いわば理にかなった戦いでした。降伏したからと言って、当時、世界中でおきていた戦争のように一族郎党皆殺しになるということはなかったので、安心して(?)降伏できたのです。というようなことは一面的な見方なのですが、そうした理性を働かせる民主的(?)な合議制があったことは事実です。
究極、戦争を回避するためには山口くらいの覚悟が必要なのかもしれません。殺される前に殺すという、勇敢でその場限りの大義で鼓舞される熱気は、それ以上の正義と覚悟を持った指導者の「わが国の息子たちはひとりも死なせない」という強固な信念のもとに否定されなければなりません。いま、世界中で起きている戦争を見れば、結局、実際に殺し合っているのは、一握りの政治家によって軍人と名付けられた八百屋の息子と魚屋の息子たちなのです。
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弓と刀 ~その三~
弓矢

矢に用いる羽根の柄の名前の一部。
(東洋文庫 貞丈雑記3より)
このように、弓は武士の誉れでもありました。矢も、鉄砲の弾のような消費物ではなく、一本一本職人が丹精し主要な矢には武将の名前も書き入れられました。矢の羽根も美しく揃えられ、主に鷹の風切羽根が用いられるのですが、その文様によってひとつずつ名前もつけられています。(画像)
余談(一) みたらし団子の語源。みたらし団子は御手洗団子と書いて、昔、下加茂神社の脇を流れる御手洗川(お参りの前に手を洗う川)にお祭りの時に団子屋さんが出て、そこから「みたらし団子」というようになったというのが通説です。一方、弓のことを古語で御執(みとらし)といい、なまって「みたらし」とよぶようになりました。そこで、串を弓に見立て、みたらし団子というようになった、という説もあります。どちらでもいいけど、ちょっと楽しいです。
余談(二)。平家物語をはじめ昔の戦闘のときにはあらかじめ、その戦場となる周辺の百姓の建物などは引き倒されたり、燃やされたりする場面が必ず出てきます。現代の戦争でも同様で、建物があるとその陰から狙い撃ちをされる恐れがあるので徹底的にこわされます。で、家を焼かれた百姓たちはどうするかというと、離れた丘の上などから戦況をじっと見守ります。そして、戦闘が終わると同時に倒れた武士の刀や弓矢、鎧兜を奪いにわーっと殺到します。矢一本、矢尻一個でも丹精込めたものは町で高く買ってもらえます。まして、鎧や刀はなおさらです。まだ息がある者はとどめをさされてはぎ取られます。究極のリサイクルです。百姓にとって敵も味方もへったくれもありません。ですから、いくさは百姓にとってそんなに悪いものではなかったのかもしれません。現代では、戦いの後に金目のものが残されることはそんなにありませんので、破壊された町の住民は悲惨なことになります。
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弓と太刀 ~その二~
弓矢

籐巻竹製弓 天然矢羽根 尖根の矢尻
刀とともに、弓は武将の必須科目のひとつです。平家物語や源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)に出てくる那須与一(なすのよいち)や義経の弓流しの話は有名です。与一は屋島の戦いで平家の舟に掲げられた扇の的をみごと射貫き、義経は同じ戦いの場で海に落としてしまった弓を危険を承知で拾いに行きます。これは義経は非力だったので源氏の大将の弓がこんなに弱いものと笑われるのが名折れだからという話です。また、龍頭のところで出てきた藤原秀郷こと俵藤太も弓の名手です。ムカデの頭の同じ一点に三度過たずに矢を当てたのですから。この秀郷の弓は五人引きという剛弓といわれていますが、歴史上(?)もう一人五人引きの弓の名手がいて、それが源為朝(みなもとのためとも=頼朝の叔父)です。父・為義とともに崇徳上皇方につき、兄・義朝の後白河天皇方と保元の乱で戦います。ニメートルを超す大男で力も強く、一本の矢で鎧を着た二人を串刺しにしたり、大きな船を沈没させたりしました。
弓矢と言えば、三十三間堂の通し矢が有名です。ここで有名なのは星野勘左衛門茂則です。江戸時代初期、以前に自ら打ち立てた記録六千六百六十六本が塗り替えられたため再度挑戦し、八千本の大記録を打ち立てます。この記録も、将来だれかに塗り替えられるためにキリのいいところでやめたと伝えられています。実話みたいです。西尾の出身で代々尾張藩士、お墓は名古屋の平和公園内にあります。
太刀と同じように、節句で飾る弓矢には儀礼用の様式が必要です。弓と矢、それに弦巻(つるまき=弓の弦を巻いておく円いもの)が組み合わせられます。この中で大切なのは「鏃(やじり)」です。魔障はきらりと光る鏃を恐れると言われています。そして鳴弦(めいげん、つるうち)という儀式があるように、弦の響く音も恐れます。これらが組み合わさったものがお節句には飾られます。
余談。義経が海に落とした弓を危険を顧みず拾おうとした話ですが、子供のころなんでそれが義経の弓だとわかるんだろう?と不思議でした。大きないくさのあとには、弓は何本も落ちていたはずです。それは、弓に名前が書いてあるからです。戦地で大勢の武士が集まったとき、身長や力量に応じて弓もいろいろあったことでしょう。その中で、だれの弓か分かるように名前が書いてあったわけです。高価な矢にも名前が書かれていたとあります。
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弓と太刀 ~その一~
太刀

太刀。
分銅鍔、彫金、覆輪の鞘。

太刀。
分銅鍔、鳥頭の柄、木製梨地塗覆輪の鞘。
お節句の飾りの鎧や兜につきものの弓と太刀。男雛のところでも触れましたが、太刀のお話です。(重箱のスミ 12 をご参照ください。)
お節句に飾るのは、実は、「刀」ではなく「太刀」、その中でも「飾り太刀」と呼ばれる儀礼用のもので、いくさをするための刀とは少し違うものなのです。太刀は、刃を下にして革や紐で帯にぶら下げて着けます。「佩く(はく)」と言います。対して、刀は刃を上にして帯に「差し」ます。博物館などで展示するときも、これに従って太刀は刃を下にして展示します。
公家の文化に倣って、戦国時代以後でも元服や男子誕生のときなどに、この飾り太刀を奉納し、成長を祈願しました。
様式的には、鍔(つば)が分銅のかたちの分銅鍔、柄(つか・にぎり部)は紐を巻かず、鮫皮や金属、先端が鳥の頭のものなどがあてはまります。鞘も金属製であったり、木製でも蒔絵や梨地塗、覆輪(ふくりん)などの装飾が施されています。ときどき時代劇で浪人がさしているようなチャンバラ用の「刀」が節句用に飾られているのを見ますが、お節句のお祝いには「縁起」や「様式」が大切なので、こうした「飾り太刀」を飾っていただきたいものです。
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