重箱のスミ ㉞

親王台  その一

  藺草(いぐさ)を使ってなくてもタタミ?

 通常、男雛女雛は「親王台」という畳の台に載せて飾られます。畳の前後には繧繝縁(うんげんべり)というきれいな縞模様の布が縫い付けられています。繧繝の「繧」は「ぼかす」、「繝」は「ぼかすように織る・染める」で、繧繝とは綺麗な色のしま模様に菱形などの文様を入れてぼかすように織ったり染めたりした布のことを指します。色や文様も一通りではなく、赤や朱色を主体にしたものや、やや落ち着いた色目のものもあります。美しい色合いの繧繝縁の畳は帝や高い位の方専用です。中世の絵巻物などでは人物そのものが描かれずに簾(すだれ)の下からこの繧繝縁の台だけが見えていることがよくありますが、これは、そこに帝や后妃がいることを表しています。

 親王以下は白地に黒のキャベツの輪切りのような「高麗(こうらい)紋」という文様で、位によって「大紋(だいもん)」「中紋(ちゅうもん)」「小紋(しょうもん)」と文様の大きさが変わります。キャベツではなく、雪割草ともいわれますが真相はわかりません。

 中世のお部屋は畳敷きではなく、板の間に持ち運び自在の畳数枚を敷いていました。そこで持ち主を分かりやすくするために畳べりでも違いがわかるようにする意味もあったのでしょう。

 お雛さまはなるべく高貴な姿を表して厄除けの祈りや感謝の対象とするもので、十二単や束帯の姿をしている以上、そこには繧繝縁の畳台がかならずなければなりません。位の低い人は畳にすら上がれず、桟敷(さじき)や板の間にしか進めませんので、板の上にお雛さまを飾ることは避けなければなりません。ところが最近、ときどき板の台にお雛様が載せられているものを散見します。お雛さまをはじめ、伝統的といわれる文化行事には必ずそこに「様式」があります。それを支える工芸技術・素材などが時代によって変化するのは避けられないことですが、やはりそこにある「意味」や「いわれ」をないがしろにされることは、依(よ)って立つべき伝統的な文化そのものが変質してしまうおそれがあります。畳に載せられていないお雛さまに意味やいわれを見出すことができるのかどうか。木目込人形などの創作的なデザインのお雛さまはともかく、実際の装束に寄せてつくられたいわゆる有職雛系(※)のお雛さまが、板の上に載せられている様子はわたしたちの目から見ると「奇異」ですらあります。少なくとも有職雛と呼ばれる種類のお雛様ではその様式の意味をしっかり理解し、それに則(のっと)ることが必要なのだと思います。

(※)有職雛系

有職(ゆうそく)とは「有職故実」の有職と同じ意味で使われています。古くは「有識」と書かれていました。有識からわかるように、数々の行事のしつらえや装束、段取り、作法などのことを有職と呼び、今の「有識者」の有識と同じような意味で使われていました。雛人形の場合には、そうした儀礼装束に則った着付けがされているものを有職雛と呼びます。現代では、京雛など着付けをほどこした雛人形はこの有職系のものと言えるでしょう。着付けの雛人形でも、デフォルメされた江戸時代中期の「享保雛(きょうほうびな)」などは有職雛とは呼ばれません。写実的な雛人形と言い換えることもできます。

京雛の多くはこの有職雛と言えますが、対照的なのが「木目込雛」です。元は小さな木彫りの顔・胴体に裂地を貼り付けたものでしたが、桐塑という木粉粘土が胴体に用いられるようになって量産が可能になりました。自由な造形が可能になり、着付けの有職雛とは違った味わいのお雛さまができるようになりました。他に、博多人形や奈良の一刀彫のお雛さまなど、それぞれ味わいのあるお雛さまがあります。

ここまで書かれてきた重箱のスミ的なことがらは、主にこの有職雛に当てはまるお約束事のあれこれです。では、なぜ、そんな面倒くさい約束事に縛られて人形をつくらねばならないかと言うと、ひとことで言えば、「そうすると美しい」からなのです。さらに言えば、不思議と上品な作品になるからです。

美しい繧繝縁の親王台。イ草の畳です。


節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

 

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五人囃子 その二

 きみたち、いくつ?

 また、五人囃子は子供の姿をしています。お小姓衆の設定なのでしょうか。お小姓といえば有名なのが信長に仕えた森蘭丸です。12歳で取り立てられたようです。他にも、前田利家は同じ信長に12歳、石田三成は秀吉に14歳、井伊直正は家康に14歳で取り立てられています。お小姓とはそれくらいの年齢のもののようです。しかし、五人囃子の髪型はその年齢ではなく、もう少し幼い年齢のおかっぱ頭で、せいぜい10歳くらいまでのものです。本来、それくらいの武士の子の髪型にはいろいろな種類がありました。子連れ狼の大五郎は、頭頂部と前髪、側頭部に少し髪を残しつるつるに剃り上げられています。武士の子の多くは、一部を残しつるつるに剃り上げたスタイルです。お小姓に取り上げられる年頃には若衆髷(わかしゅうまげ)という、大人の髪型に近いスタイルになります。この五人囃子はちょうどその中間くらいの、お小姓に採り上げられる前の髪型に見えます。近習の優秀な子供たちが演奏のために集められているところかもしれません。

 それにしても、なぜ、この子たちは官女や右大臣左大臣と同じような大きさなのでしょう。八頭身くらいあります。本来ならばもっと小さく四~五頭身くらいに作られないといけませんが、なぜか大人と同じ大きさに作られています。こどもでもとりわけ背の高い大きな子を集めた設定かもしれません(笑)。

 男雛女雛が公家だとしたら、五人囃子は雅楽を演奏しているのが妥当です。また、その装束も武士の裃(かみしも)ではなく、直衣(のうし)、狩衣(かりぎぬ)のような姿のはずなので、この子たちは武家の子息なのです。髪型も公家の子ならば角髪(みずらがみ)という髪型で、かぶっている帽子も侍烏帽子(さむらいえぼし)ではなく、立烏帽子(たてえぼし)のようなものになります。

 もっとも、お内裏雛はお供の人形の何倍もある大きさなので、五人囃子だけを「大きすぎる」というのもおかしいのかもしれません。(※)

 これも、「人形なので」笑ってスルーしていただかなければならないところです。いろんな矛盾や誇張が入り混じっていますが、それぞれの立場の人々の要素が取り入れられていると考えれば、楽しさがいっそう増すというものです。

(※)お釈迦様の身長は丈六(じょうろく)といって一丈六尺、5メートル弱だったと伝えられています。貴い人は大きかったのでしょう。そう考えるとお内裏さまの大きさもうなづけます。

 

 

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人形供養

人形供養

 ことしも10月3日(木) 午前中(9時~12時)、大須観音様で

 人形供養を執り行います。

 

 ご家庭で保管できなくなってしまったお人形類がございましたら、

 丁重にご供養させていただきます。

 当日、直接大須観音様境内の特設受付にご持参ください。

 (当日ご都合の悪い方は、事前に組合HPぶろぐ掲載の受付店に

  ご持参ください)

 供養料はお気持ちですが、だいたい一体、もしくは一組3000円

 程度からとなります。

 金属ひな段や、ガラスケースなどうけたまわれないものがございます

 ので、ご相談ください。

 端午の節句の鎧兜、ぬいぐるみ等も承ります。

全国でも屈指の荘厳な供養会です。

連載 重箱のスミ ㉜

五人囃子 その一

 〇五人囃子の袖

 着物の「小袖」と「大袖」の違い。なんとなく、小さい袖が小袖で、振袖のような大きな袖が大袖と思いがちですが、実は、袖の大きさには関係なく、手の出るところが小さく開いているのが「小袖」で、女雛の十二単のように手の出る部分が縫われていなくて大きく開いているのが「大袖」なのです。

 いま、五人囃子の袖はほとんどが袖口がひらいている「大袖」になっています。本来ならば、手の出るところから下は縫いとじられていなければならないのですが、下着が見えるようにできています。これは、平成の始めのころに現れた作りで、一見、下着のかさねが見えてきれいなような気がしますが、実はこの作り方の方が直線縫いだけでできるので簡単ということらしいのです。

 本来ならば、手の出るところの下は後ろに向かって丸く縫われていなければならないのですが、これがなかなか手間がかかります。昭和以前の五人囃子には今のような袖のひらいたものはありません。これは、そういうものだからです。新しいお雛さまで、小袖の作りになっている五人囃子をお持ちでしたら、それはかなり良いお雛さまかもしれません。

 また、最近ときどき見かけるのが、腰の左側に脇差(小刀)が差し込まれていない五人囃子です。さらには、脇差が下に置いてあるものもあります。飾り方説明書にそう書かれているものも見たことがあります。人形なので、きれいとか可愛い、ということである程度のことは許されるとは思っていますが、理由のない単なる手抜きか無知である場合には責められてもいいと思います。人形の着付師は脇差を差し込みやすいように袴を作るか、最初から脇差をつけておく必要があります。切腹のときには座った前に脇差が置かれ、抜いた鞘を後ろに置いて腹を切ります。縁起でもありません。

袖の前部分が縫われていません。   縫われています。

 

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女雛 その十六

 単(ひとえ)のひねり

  ひねる!
写真の衣装の単(女雛の緑色の部分、男雛のオレンジ色の部分)は周縁が全部コヨリのように丸めてあります。これをヒネリといいます。上着(五つ衣や表着)の裾は床に引きずるように長くなっていますので、どうしても傷みます。そこで、その下に着る単を上の衣より一回り大きく作り、五つ衣などの上着が直接床に接しないようにしています。単は、裏のついていない、一枚の布を縫って仕立てた簡単なつくりの衣です。

 この単の衣は端っこにうすく糊を付けてひねられ、その部分がすり切れたりすれば、また少しずつひねることができます。単の衣装は、この、すその部分だけではなく袖、襟もとなど周縁すべてがこのようにひねられています。江戸時代のころのお雛さまは、男雛・女雛だけでなくその他のお供の人形たち(官女、五人囃子や随身など)も同様になっています。

 このヒネリ、簡単そうですがけっこう大変な作業で、単を仕立てた後、少しずつ糊をつけて丸めていきます。特に角のところは丸くならないように慎重にしなければなりません。

 ひねることによって周縁が固くなりますので、折って縫うよりも装束の形を美しく整えることができます。徳川美術館に展示されている雛人形の多くはこのように仕立てられており、かつては普通にこの方法で仕立てられていたことがわかります。実際の装束がそうなっているので、そのように作られているだけなのです。

現代でも一部のお雛さまでこうしたつくりを見ることができます。

女雛の裾の裏側            男雛の袖口

 

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女雛 その十五

 唐衣 ~五~

 衣と書いてキヌと読むことからもわかるように、平安時代ころには公家の衣裳はすべて「絹」で作られていました。農民などの庶民の着物は、それに対して布すなわち苧麻(ちょま:カラムシ、イラクサ)や麻などの繊維で、木綿は当時は舶来品で極めて高価なものでした。木綿がわが国で栽培され始めたのは鎌倉~室町時代のころといわれています。当時のお触れにも、庶民は苧麻などの着物、庄屋クラスで紬(つむぎ:くず絹をつなぎ合わせた糸で織った布)まで、とあり、絹の着物を着ることは許されていませんでした。紬は、今でこそ大島紬など高級品の代名詞ともなっていますが、宮中では紬の装束はありえませんでした。

「から衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ」

 古今和歌集にもある在原業平の唐衣の歌です。それぞれの句頭を取り出すと「かきつばた」となることでも有名です。「着つつなれにし」は着慣れるとともに「着続けてよれよれになった」意味も含まれ、それを糊で洗い張りしてしゃんと「張って着る」という、二重三重の意味がかけられています。

 当時の結婚は男性の通い婚、夫が来る時には妻は唐衣に裳をつけた正装で出迎えたということです。

「着つつなれにし・・」ほどではありませんが、柔らかく着せ付けられた唐衣。チョウチョが向かい合った文様です。後でふれますが、こうしたお人形にはイ草の畳の台が必須です。

今回で「重箱のスミ」も30回を迎えました。どうでもいいような、すみっこをほじくり返すようなことでも、回をかさねるとけっこう楽しいものです。そして、意外とたくさんのものごとにつながっていることが見えてきます。まだまだ続きますよ~!よかったらご意見をお聞かせいただけるとうれしく思います。

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たなばた と お盆

昨日は七夕。旧暦でのお話。今日でおかたづけ。
 お盆ももうすぐ。今日、最後のお盆提灯のお客様が受け取りにいらっしゃいました。これもおかたづけ。
 盆提灯を人形屋が扱っているのを不思議に思う方がいらっしゃるけど、昔からの人形屋は「際物屋(きわものや)」と言って、季節季節のしつらえを扱うので、お盆提灯はむしろ人形屋で買うものでした。最近は雛人形などもおもちゃかベビー用品として扱うお店がほとんどで、「しつらえ」という概念からはずれてししまった感があります。
 ところで、この葉っぱの飾りものは「乞巧奠(きこうでん)」といって、たなばたのしつらえです。葉っぱは「梶」の葉です。願い事を書く短冊の原型です。

 

 

連載 重箱のスミ ㉙

女雛 その十四

 唐衣 ~三~

 日本人ではじめてパリのオートクチュール協会のメンバーになった森英恵が、この平安時代の装束抄をヨーロッパに紹介し、欧米のファッション界を驚かせたことはよく知られています。また、「マダムバタフライ」と呼ばれた彼女のトレードマークの蝶のデザインは、正倉院にも収蔵される装束の有職文様からとられていて、唐衣にもしばしば用いられています。平安時代に研ぎ澄まされた造形と色彩感覚は、現代のファッション界にも大きな影響を与えていると言ってもいいのかもしれません。と言いながら、私はファッションに関してはまったくの素人なので、ちょっと大げさな表現かもしれないことを付け加えます。

 西暦1000年頃、ヨーロッパでは大きな侵略戦争が続いていて、文化的には「暗黒時代」と呼ばれています。日本では1000年を中心に数百年にわたり大きな戦乱のない時代を享受していました。こと、「文化」については平和は絶対的な条件と言っても過言ではありません。世界最初の小説、しかも長編、女性作家による「源氏物語」が生まれたのもまさにこの時代です。

古典的なチョウチョの文様(写)

 

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女雛 その十三

 唐衣  ~その二~

 前項㉗で五つ衣に触れましたが、平安時代からこの五つ衣と単、表着、唐衣の色柄の組合せ、かさね方は当時の女性たちもかなりこだわっていたようで、多くのコーディネート本が著わされています。有名なのは平安時代末期の源雅亮(みなもとのまさすけ)著の「満佐須計装束抄(まさすけしょうぞくしょう)」で、他にも室町時代中頃、一条兼良(いちじょうかねら)の著わした「女官飾抄」、室町時代末期、聖秀尼宮(しょうしゅうにのみや)の「曇華院殿装束抄(どんげいんどのしょうぞくしょう)」などがあります。これらをまとめられた京都市立芸術大学・故長崎盛輝名誉教授の著書「かさねの色目」はわたしたち人形関係者の聖書(ばいぶる)となっています。この「かさね」には「重」と「襲」の二通りの漢字が与えられています。「重」は一枚の袷(あわせ)の衣の裏表のこと、「襲」はその衣を何枚も着装して表される衣の色の組合せのこととされ、今ではこの二通りの文字でその意味がわかるようになっています。

「かさねの色目」の中の「満佐須計装束抄」  原本は実際に染められた布地が貼られています。

美しく見える着物のかさね方が何十通りも記され、それぞれ優雅な名前がついています。平家物語などに女性の装束の説明がよく出てきますが、これがあるとカラフルにその姿が想像できます。

 

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連載 重箱のスミ ㉗

女雛 その十二

 唐衣  ~一~

  フォーマルなショートジャケット

 「からころも」または「からぎぬ」と読みます。十二単装束の一番上にくる、丈の短いコートまたはジャケットのようなもので、ほぼ必ず裳と一緒に着られます。裳(も)のところで述べたように、この唐衣には帯や紐はついておらず、裳の帯で締められます。

 令和天皇の即位礼でも見られたように、装束の一番最後に唐衣の上から裳でまとめられますが、古い絵巻などでは裳を付けた後、その上から唐衣を着たようなものもあり、時代によって着方もいろいろあるのかもしれません。

 雛人形では、この唐衣とその下の表着(うわぎ)、さらに袖・襟口に出る五つ衣の色・柄の組み合わせが作者のセンスが問われるところです。さらには、男雛の装束とのバランスも重要となってきます。有職系の雛人形の場合、男雛の束帯に表される位などに女雛も強く影響されます。この辺りの「格」を理解していないと妙なバランスの内裏雛(男雛女雛一対)になってしまいます。

めずらしく、このお雛さまは裳の上に唐衣を着ています。オレンジ色の部分。

 

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