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連載 五月人形の重箱のスミ 61

神天鍾馗(じんてんしょうき)  ~その一~

  神武天皇

神武天皇(当店でご覧いただけます)

 

 昔から神天鍾馗とひとくくりに呼ばれ、端午の節句にはよく二体一緒に飾られました。

 神武天皇は天皇家の祖、初代天皇です。なかなか難しい人形で、強そうでなければなりませんが、更にそこに知性と品性が感じられなければなりません。また、身につけるものにいくつかの決まり事、つまり「様式」があります。手にもつ弓は一般的なものではなく「梓弓(あずさゆみ)」といって独特な質感・かたちのものです。そして、その先には金のトビをとまらせます。金のトビは金鵄と書き、戦前の金鵄勲章(きんしくんしょう)の由来にもなりました。剣は「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」をイメージした直剣で金属の鞘、柄は蕨頭(わらびがしら)。首には三種の神器の「勾玉(まがたま)」と「鏡(銅鏡)」をかけているなど、多くの決まりごとがあり、どれも欠かすことはできません。

 神武天皇が日向の国から東征し、橿原に都を開いたことから奈良時代、平安時代に至る長い歴史が始まります。橿原に神武天皇を導いたのが八咫(やた)の烏で、サッカー日本代表のシンボルマークにも用いられています。三本足の烏です。神話ですのでいろいろな説があります。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

端午の節句のしつらえ 「座敷幟」

旗が何本も立っています。これが「座敷幟(ざしきのぼり)」です。

今年もご用命をいただき仕立てることができましたが、来年はわかりません。伝統とか文化とか言われて久しいのですが、このようにまさに風前のともしびという物が私たちの仕事のまわりにはたくさんあります。恐らく、木造建築とか指物、漆器、呉服など伝統的と思われている業種はすべて同じような状況にあると思います。

この座敷幟には欄間職人の彫る木彫が指物師のつくる木枠にふんだんに組みこまれ、そこに絵の描かれた縮緬や塩瀬の裂地の旗、シャグマとよばれる白い毛の毛槍や金箔押の千成瓢箪(せんなりびょうたん)などの旗指物・上物(うわもの)が立てられます。それぞれ別々の職人がこしらえたものをまとめるのですが、そうした知識や技術を備えた人形屋がほとんどいなくなってしまい、自然とそうした品に触れることがなくなり、お求めになるお客様もいなくなってしまうことでこうした品は絶滅することになります。

この写真の大人の顔の武者人形、両脇の弓と太刀はすでに作られなくなってしまった品物です。桐塑に奉書紙の毛並みの白馬は、作者がご高齢のため数年中にはできなくなります。雌桑の縁の遠山柄の屏風は作っていただける表具屋さんは一軒しかありません。下に敷いてある緑のウールのフェルト毛氈でさえ、国内メーカーは1社になりました。どの職人、どの下職さんがいなくなっても同じようなしつらえをお揃えすることはできなくなります。

職人さんに仕事を続けてもらうには、わたしたちが「注文する」しか方法はありません。この世からこうした「仕事」がなくなるかどうか、それを見届けたくないためにがんばってご紹介をし続けています。

連載 五月人形の 重箱のスミ 60

端午の節句の三太郎

  すなわち、金太郎、桃太郎、浦島太郎 ~その四~

  浦島太郎

すみません、浦島太郎の人形がなくて・・

 三人目の浦島太郎。この話はわが国でもっとも古いお伽話とされています。元のお話では亀が異界のお姫さま本人だったりと、今知られている内容とはやや違う部分もありますが、概ね同じような筋書きです。昔からお節句に飾られるお人形ですが、金太郎や桃太郎は強い、優しい、出世、などで飾られる理由がわかりますけれども、この浦島太郎にはそれがありません。動物を大切にしようとか、今風ならば環境を守ろうということなのでしょうか。

 源氏物語に「 物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁 」とあるように、「物語」として一番古いのは「竹取物語」といわれていますが、実は浦島太郎の話はそれより古く日本書紀にも「浦島子」の話として出てきます。

 浦島太郎の神社として有名なのは、京都・丹後半島にある宇良神社(浦嶋神社)です。御祭神が浦島太郎です。

 余談です。竜宮城のように昔話にはたびたび龍が出てきますが、この龍はすべて同じ一頭の龍だという説があります。それは、龍には子供がいないということになっているからです。龍生九子といって、龍には九匹の子がいたのですが、全員龍になれませんでした。その九匹の子の中に「贔屓(ひき)」という子がいます。めっぽう力が強い子で亀のかたちをしています。太郎の乗った亀がこの贔屓かどうかは知りませんが、関わりがあるのかもしれません。贔屓は力が強いので、よく神社などの柱の下で建物を支えているのを見かけます。この贔屓をひっぱると柱が倒れてしまうことから「贔屓の引き倒し」という言葉が生まれました。お店で「どうぞごひいきに~」と言うのは、「うちの屋台柱(屋台骨)を支えてください」という意味になります。また、ヒキガエルはなんとなく力が強そうで、贔屓を想起させるとことから名付けられました。

 面白いのは、浦島太郎の竜宮は海の中ですが、日本の昔話に出てくる龍はたいがい山の中の滝つぼに住んでいる点です。

 龍については、後ほど兜のお話の中で改めて触れるので、ここらでお預けです。

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連載 五月人形の重箱のスミ 59

御所人形風 桃太郎

端午の節句の三太郎

  すなわち、金太郎、桃太郎、浦島太郎  ~ その三  ~

 二人目の桃太郎。もちろん童話の中の人物です。桃から生まれたという説と、桃をおじいさんとおばあさんが食べたら若返って桃太郎が産まれたという説がありますが、どちらでもいい話です。全国に桃太郎神社は何社かあるようですが、中でも有名なのは愛知県犬山市の桃太郎神社、岡山市の吉備津神社、香川県の熊野権現桃太郎神社です。それぞれにいわれや史跡もあって楽しめます。

 桃太郎の歌は今でも歌われていますが、

 ※ 四番: そりゃ進めそりゃ進め 一度に攻めて攻めやぶり つぶしてしまえ鬼が島

 ※ 五番: おもしろいおもしろい のこらず鬼を攻めふせて 分捕物をえんやらや

というくだりになるとちょっと鬼が気の毒になります。明治末期に作られた歌詞なので時宜には合っていたのでしょう。しかし、この桃太郎に出てくる鬼や一寸法師の鬼は弱い!弱すぎる。ここで退治された鬼たちは本当に悪さをしていたのかしら?これに比べて、金太郎の属する頼光一家の渡辺綱の退治した羅生門の鬼は強くて怖い。鬼もいろいろです。

 桃太郎の頭には白い紙を折りたたんだうさぎの耳のようなものが付けられています。「力紙(ちからがみ)」というもので、歌舞伎の「暫(しばらく)」などの頭にも付いています。力の強い者をあらわす目印となっていて、一見そんなに強そうに見えない桃太郎、実は強いんだよというのを示すために付いているのでしょう。手に持つ「日本一」の旗も定番です。

 

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連載 五月人形の重箱のスミ 58

下毛野の金時

 

端午の節句の三太郎

  すなわち、桃太郎、金太郎、浦島太郎  ~ その二  ~

 

 姑獲鳥(うぶめ)の話も、子供のころ絵本で読んだことがあったので京極夏彦氏の本に手が伸びたのですが、今はこうしたお話、絵本などに子供たちが触れる機会が少なく、金太郎でさえもどんな人物なのかわからない人がふえてきました。四天王の話も後世に脚色されたところが多いでしょうが、少しでも昔話として聞いた経験があると歌舞伎などで名前が出てきたとき、記憶がよみがえることがあります。卜部季武の話を知らなかったら、京極夏彦氏の本を買うこともなかったかもしれません。

 金太郎は成長して「坂田金時」となり、金時豆の語源になった人。「きんぴらごぼう」のきんぴらは金太郎の息子(金平)の名から来ています。

 余談ですが、金太郎が道長のところにお使いに来たそのしばらく後、「下毛野(しもつけの)」の住民が地名から「毛」の字を消して欲しいと藤原道長に訴え出たことが同じ「御堂関白記」に記されています。それ以来「毛」を消して「下野」と書いて「しもつけの」と読むことになりました。気持ちは分かります。しばらく後になって、「上毛野」(こうづけの)も「毛」が消されて「上野」となりました。忠臣蔵の吉良上野介(きらこうづけのすけ)も「毛」がありませんね。本来は「毛野(けの)」という土地の上(かみ)と下(しも)なので、「毛」がないとどこのことやら分からないのですが、気持ちは理解できます。

 さらに余談。この本(姑獲鳥の夏)の表紙に使われているのは、絵画でも彫刻でもなく「張子(はりこ)」です。ダルマさんとか犬張子とか、紙を貼り重ねてできているあれです。作者は荒井良さんという作家で、京極氏のこのシリーズの他の作品の表紙もすべてこの方が手掛けています。ダルマは選挙の時以外には見かけなくなって、先細りの伝統工芸のひとつだったのですが、荒井氏が新たな張子の可能性を生み出し、若い美術科の学生たちの中にも興味を示す人が出てきました。素晴らしい仕事です。

 金太郎から話がそれました。金太郎は昔から「気は優しくて力持ち」の象徴で端午の節句にもよく飾られるようになり、金時豆は金太郎のような赤い色で精がつくことから名付けられました。キンピラは講談に仕立てられた金太郎話の中で生み出されたものだろうと思いますが、本当にいたのかもしれません。熊と相撲をとったり、熊にまたがってお馬のけいこをしたりしていますが、熊と素手で戦ったのは、私の知る限りではこの金太郎とウィリー・ウィリアムスだけです。足柄山山中で頼光が見つけ出した少年なのですが、母親は山姥(やまんば)で、父親はいなかったそうです。

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連載 五月人形の重箱のスミ 57

  

端午の節句の三太郎

  すなわち、桃太郎、金太郎、浦島太郎  ~ その一  ~

スマホのコマーシャルですっかり有名になった三人です。この中に実在の人物がひとりいます。それが金太郎です。平安時代、藤原道長(ふじわらのみちなが)のところに「頼光(らいこう)の部下、下毛野(しもつけの)の金時という若者が来た」と、道長の日記「御堂関白記」に書かれています。

 頼光とは源頼光(みなもとのよりみつ)で、「大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)」や「土蜘蛛(つちぐも)退治」で有名な武士です。この頼光の四天王に金太郎、渡辺綱(わたなべのつな)、卜部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいさだみつ)がいます。金太郎と渡辺綱は有名ですが、他の二人はそれほどでもありません。

卜部季武は坂上田村麻呂の子孫といわれ、弓の名手でした。宝塚市にある松尾神社は坂上田村麻呂を御祭神とし、この季武が創建したといわれています。京極夏彦に「姑獲鳥(うぶめ)の夏」という作品がありますが、この小説本の姑獲鳥の表紙を見たとき思わず買ってしまいました。氏の最初の作品です(多分)。時代小説かと思ったら、現代のお話でした。姑獲鳥とは通りかかった人に子を抱けと押し付ける幽霊ですが、卜部季武は豪胆に姑獲鳥の子を抱いたまま家に帰ってしまいます。家で袖の中にいるはずの子を見たら葉っぱだったという話で、仲間の侍たちの度肝を抜いたというお話。

碓井貞光は槍や大鎌の名手とされていますが、それよりも群馬県四万(しま)温泉を発見したという方が有名かもしれません。

 

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お雛さまを飾る ~屏風のちから~

昨日、ご注文の草花屏風がやっとできあがってきました。お気に召していただけるといいのですが・・・
あんまり美しいのでちょっと飾らせていただきました。
もう、好きとかどうとかのレベルではありません。屏風の醸し出す上品な空間、しかも決してお雛様より前に出ず、後ろからそっと支えるつつましさ・・・六曲のたてのラインが気品のある荘重さを醸し出しています。屏風に限らず、ちゃんとした雛道具たちにはこうした「ちから」があるように感じます。
後ろは「鳥合わせ(闘鶏)」の掛軸。三月三日は鳥合わせの日でもありました。古いお雛様にはときどき闘鶏の人形たちが飾られているものもあります。

私どものような節句飾りの専門店では、3月3日までお雛さまをお買い求めいただくことができます。それは、例えば今日(2/27)、お生まれになったお嬢さまにとっても、今度の3月3日は「初節句」だからです。それにお応えできなければ、節句品屋ではないと自負しています。

近くの予備校の先生が、「受験の前にはお雛様や五月人形を飾るように言っています。」と教えてくださいました。お雛様や五月人形は「厄除け」「魔除け」「大願成就」の最たるお守りです。一般の神社のお守りと違い、お雛様は「その子のためだけ」に用意された、そんじょそこらのものとはレベルの違うお守りだからです。

受験、就職、結婚、その他、人生のいざというときに、ご両親はじめご家族全員の祈りのこもったお雛さまを飾って下さい。きっと目には見えないけれど、心の底にじんわりと力が湧いてきます。それがお雛様や五月人形の本当の役割であり、ちからなのです。

連載 五月人形の重箱のスミ 56

端午の節句の主役「神功皇后」と、「八幡」 ~その2~

 

 さて、神功皇后の子、応神天皇はこうして七十歳になって即位するのですが、世間で言われる「八幡様」は多くの場合この応神天皇のことを指しています。では、八幡とはなんのことでしょうか。

 一説にはわが国土着のもっとも古い信仰神といわれています。大分県宇佐神宮は全国に四万数千社あるといわれる八幡社の総元で、神功皇后が三韓征伐のときに八流(やながれ)の幡(ばん・はた)を立てたことや、応神天皇誕生の時に屋根の上に八流の幡がひるがえったことなどから八幡(やはた)と呼ばれるようになったと言われています。平安時代になって神仏習合の習いが広まり、仏教式に「はちまん」と呼ばれるようになりました。

 仏教式に、というのは、仏教とともに漢字が大陸からもたらされるまで、日本には文字がありませんでした。当初は仏教は学問としての面もあり、それこそ命がけで中国に渡った学僧や優秀な政権中枢の子息たちが仏教とともに文字を学び、日本語にとりいれていった歴史があるからです。

 多くの八幡社では、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、比売神(ひめがみ)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)らの内の三柱が御祭神となっています。平安時代以降は、清和源氏、桓武平氏等の武士の尊崇を集め武士の守り神として多くの八幡社が作られました。八幡太郎義家などの名前にもつけられているように源氏系ではその後も家康に至るまで守護神とされてきました。頭の頂に神が宿るよう、兜のてっぺんの穴は「八幡座(はちまんざ)」と名付けられています。

 よく「若宮八幡」とか「若宮神社」という神社がありますが、若宮八幡の場合には応神天皇の御子・仁徳天皇のことを指し、一般の若宮神社の場合は応神天皇に限らずそれぞれの御祭神のお子様をお祭りしてあります。名古屋の若宮八幡社の御祭神は仁徳天皇、応神天皇、武内宿禰の三柱とのことです。前に述べたように、ここの山車は神功皇后です。

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連載 重箱のスミ 55 ~端午の節句~

端午の節句の主役「神功皇后」と、「八幡」 ~その①~

神功皇后。中央のひげのおじいさんは武内宿禰、抱いている赤ちゃんが十五代・応神天皇です。左の人はただの旗持ち。旗と書きましたが、これが「幡(ばん)」です。

 

江戸時代から戦後にかけてもっとも人気のあった節句人形は神功皇后でした。鎧をつけ、はちまきをしめ長刀(なぎなた)を手にしたりりしい姿で、多くの場合赤ん坊を抱いたひげのおじいさんと一緒にいます。白馬に乗っていることもあります。ひげのおじいさんは八百歳まで生きていたといわれる武内宿禰(たけのうちのすくね)で、抱いている赤ちゃんが皇后のお子様の応神天皇です。

神功皇后は大正十五年(昭和元年)に皇統譜が定められるまでは第十五代の天皇に数える歴史書もありましたが、さまざまな事情から皇統から外されてしまいました。そう、皇統は時代によって変化しているのです。現在、皇統と呼ばれているものは昭和元年に定められたものなのです。また、南北朝時代の北朝の天皇もいまは皇統譜から外されていますので、現在の百二十六代令和天皇も違う代数にする学者もいます。

妊娠中の身で三韓征伐に出かけたことが有名ですが、夫の仲哀(ちゅうあい)天皇は皇后が出かけるときに亡くなってしまいます。そのため、子の応神天皇は胎内にあるときから天皇になることが運命づけられ胎中(たいちゅう)天皇とも呼ばれました。帰ってきた神功皇后は応神天皇を無事出産しますが、践祚(せんそ:皇位につく儀式)することなくそのまま約七十年間実質的に皇后が天皇の役目を果たしました。つまり、応神天皇が天皇になったのは七十歳を過ぎてからなのです。従って、昭和以降、わが国ではその約七十年間、天皇が存在しなかったことになってしまいました。

落語では神功皇后とならんで太閤秀吉も人気があったように言われていますが、主に関西を中心に人気が高かった秀吉に比べ、神功皇后は全国的に人気がありました。

神田祭でも神功皇后の山車が明治時代まではあったのですが、現在は千葉の諏訪講の祭に用いられているそうです。この他、全国の祭の山車に皇后の人形は飾られています。(近隣では、東区筒井町・天王祭の山車、中区・若宮神社の山車、桑名市・石取祭の祭車など)

もし、十五代天皇に数えられていれば初めての女性天皇として最近の皇室後継問題にも影響を与えたかもしれません。大正天皇の后、貞明皇后はこの神功皇后に深く心酔していたと伝えられています。また、四十五代聖武天皇の后、光明子すなわち光明皇后にも傾倒していたと言われています。これは、虚弱だったと伝えられる聖武天皇を支え続けた皇后の境遇に親近感を覚えたのでしょう。皇族以外ではじめて皇后になったのも光明皇后です。癩病患者のために千人風呂を作り、自ら患者の背中を流したと伝えられる皇族ボランティアの先駆者ともいえる方です。この聖武天皇と光明皇后の娘は四十六代孝謙天皇となり、さらに重祚(ちょうそ:二度天皇になること)して四十八代 称徳天皇にもなっています。ちなみに聖武天皇の先代、四十四代元正天皇は、皇后や皇太子妃ではなく独身で初めて天皇になった女性です。

この辺りの歴史を垣間見ると、現在の性別にからんだ天皇の後継問題は昔の方がかなり進んでいるような気がします。

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連載 重箱のスミ 54 ~端午の節句~

端午の節句

もうすぐひな祭り。これまで、お雛さまのお話で重箱のスミっこをほじくりまわしてきましたが、そろそろ端午の節句の重箱に移ろうかと思います。

端午の節句は、そもそも「端午」の意味からしてよくわかりません。飾るしつらえにしても、鎧兜や武者人形、鯉のぼりなどなにをどう飾って、なにをしたらいいのかよくわからない、という方が多いのが実情です。そんな方々に参考になるのかどうかわかりませんが、とりとめのないお話をほじくります。「端午の節句」という世界は、足を踏み入れたら抜け出せないような面白いアイテムがたくさん出てきます。どうぞお付き合いください。

 

 今では、端午の節句の飾りと言えば兜や鎧、あるいは鎧を着た子供の姿のお人形が一般的です。しかし、戦後まもなくまで、この子供の顔の大将人形というのはほとんどありませんでした。わずかに、京都で若殿姿の人形があるくらいでした。

 では、端午の節句に昔は何を飾っていたかというと、鎧兜は昔からありましたがその他には神功皇后や神武天皇、鍾馗(しょうき)、ヒゲをはやした大人の姿の大将人形、それに桃太郎や金太郎、一寸法師、浦島太郎などの人形でした。

 落語の「人形買い」では、八つぁん熊さんが仲間の端午の節句のお祝いに人形を買いに行き、神功皇后と太閤の人形で迷うシーンあります。朝鮮征伐や、八幡(はちまん)様と崇められる応神天皇の母親「神功皇后(じんぐうこうごう)」と、出世物語の最高峰の人物「太閤秀吉」とで迷うのですが、神功皇后の方が代々続いていることからいいのではないかと神功皇后になります。そのあとのどたばたは庶民的でとても楽しいお話です。

 鎧兜のことを甲冑(かっちゅう)ともいいますが、甲が鎧の意味で、冑は兜です。「甲」を「かぶと」と読むこともあって間違いやすい言葉です。亀の甲羅を思えば甲が鎧であることはわかりやすいと思います。昔、マジンガーZというアニメの主人公は「兜甲児」という名前で、まさに端午の節句にふさわしいような名前でした。

 

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